第89話:優しさの多様な表現形態
魔界の庭園、静かな午後でした。
ノエルは、ガブリエル嬢と共にベンチに座っています。
前方では、ラグエルとルシファーが話していました。
「本当に、申し訳ございません」
ルシファーが、深く頭を下げています。
「いえいえ、大丈夫です」
ラグエルが、優しく言います。
「もう、許しましたから」
「でも、私が」
ルシファーが、また謝ろうとします。
「許しますよ」
ラグエルが、微笑みます。
その繰り返しでした。
何度も何度も、同じやりとりが続いています。
ノエルは、その様子を見ていました。
初めて見る光景ではありません。二人は、いつもこうなのだと聞いていました。
「あれは、昔からなのです」
ベルゼブブが、隣に座ります。
「戦争の時も、戦後も」
「戦争の時も、ですか」
ノエルは、少し驚きます。
「ええ」
ベルゼブブが、頷きました。
「二人は、何度も戦場で向き合いました」
ノエルは、耳を傾けます。
「ラグエル様は、天使側の後方支援」
ベルゼブブが、説明します。
「ルシファー様は、魔界側の戦略立案」
直接戦うのではなく、組織を支える役割——二人とも、重要な立場にいたのです。
「ある時、作戦の失敗がありました」
ベルゼブブが、静かに言います。
「魔界側の作戦が、天界に見破られた」
ルシファーの立案した作戦が、失敗したのでしょう。
ノエルは、想像しました。
「ルシファー様は、自分を責め続けました」
ベルゼブブが、続けます。
「多くの仲間が、傷ついたからです」
その責任感が、今も残っているのかもしれません。
ノエルは、思いました。
「一方、ラグエル様は」
ベルゼブブが、ラグエルを見ます。
「敵である魔界を、責めることをしなかった」
復讐の担当者なのに——ノエルは、その矛盾を感じます。
「むしろ、戦場で会った時」
ベルゼブブが、言います。
「『仕方のないことだ』と、声をかけたそうです」
敵に、優しさを向ける——その行動が、不思議でした。
前方で、まだ続いています。
「本当に、私が悪かったのです」
ルシファーが、言います。
「いえ、もう許しました」
ラグエルが、応えます。
「でも」
ルシファーが、続けようとします。
「大丈夫ですよ」
ラグエルが、また微笑みました。
ノエルは、考えます。
これは、優しさなのでしょうか。ラグエルは、相手を許すことで優しさを示している。でも、ルシファーは、それを受け取れない——。
「ルシファー様は」
ノエルが、ベルゼブブに尋ねます。
「なぜ、許しを受け取れないのでしょう」
「自分を許せないからです」
ベルゼブブが、静かに答えます。
「他人が許しても、自分は許せない」
その苦しさが、伝わってきました。
「戦争が終わって、平和協定が結ばれた後も」
ベルゼブブが、続けます。
「ルシファー様は、謝り続けました」
何に対して、謝っているのでしょうか。
ノエルは、分かりませんでした。
「過去の全てに、でしょうか」
ベルゼブブが、言います。
「戦争、失敗、傷つけた人々——全てです」
その重荷は、どれほど重いのでしょうか。
「ラグエル様は、それを見て」
ベルゼブブが、ラグエルを見ます。
「許すことで、楽にしてあげたいと思った」
優しさ——それが、ラグエルの方法でした。
「でも、伝わらない」
ノエルは、静かに言います。
「ええ」
ベルゼブブが、頷きます。
「善意が、善意として届かない」
その難しさを、ノエルは実感しました。
ガブリエル嬢が、立ち上がります。
「少し、話してきますね」
彼女は、二人の元へ歩いていきました。
「お二人とも」
ガブリエル嬢が、静かに言います。
ラグエルとルシファーが、振り向きます。
「それぞれの優しさが、届いていないようですね」
ガブリエル嬢が、優しく言いました。
二人は、黙ります。
「ラグエル、あなたの許しは、素晴らしいです」
ガブリエル嬢が、続けます。
「でも、ルシファーには、別の形が必要かもしれません」
ラグエルが、少し驚いた顔をします。
「ルシファー、あなたの謙虚さも、美しいです」
ガブリエル嬢が、ルシファーを見ます。
「でも、ラグエルの優しさを、受け取ってあげてください」
ルシファーが、俯きます。
「優しさは、一つではありません」
ガブリエル嬢が、静かに言います。
「でも、相手の形を理解することも、優しさです」
その言葉が、二人に届いたようでした。
「私は……」
ラグエルが、口を開きます。
「許すことしか、できなくて」
「私は……」
ルシファーが、続けます。
「謝ることしか、できなくて」
二人とも、自分のやり方しか知らなかったのです。
ノエルは、理解しました。
「では、お互いに」
ガブリエル嬢が、提案します。
「相手の言葉を、まず聞いてみませんか」
二人が、顔を上げます。
「ルシファー」
ラグエルが、真剣な顔で言います。
「あなたが、何を苦しんでいるか、教えてください」
ルシファーが、少し驚きます。
「ラグエル」
ルシファーが、言います。
「あなたの優しさを、どう受け取れば良いか、教えてください」
二人の間に、変化が生まれました。
許すと謝る——その繰り返しから、対話へ。
ノエルは、見守ります。
これが、解決の始まりなのかもしれません。
時間をかけて、二人は話しました。
ラグエルは、ルシファーの苦しみを聞きます。ルシファーは、ラグエルの優しさについて尋ねます。
やがて、二人の表情が変わっていきました。
理解——それが、少しずつ生まれているようです。
「ありがとう」
ルシファーが、初めて謝罪以外の言葉を言います。
「こちらこそ」
ラグエルが、微笑みました。
完全な解決ではないでしょう。
でも、一歩は進んだのです。
ノエルは、胸に刻みました。
優しさ——それは、多様です。そして、時として伝わりにくい。大切なのは、相手の形を理解しようとすること。
善意の行き違い——それは、起こります。
でも、対話で、少しずつ近づける。そう信じたくなりました。
庭園の空が、やわらかい色に変わっていきます。
魔界の午後は、静かに過ぎていきました。
## あとがき
優しさには、多くの形がありました。許すこと、謝ること——どちらも純粋な善意。でも、届かない時もある。理解し合う努力が、関係を一歩ずつ前に進めます。




