第88話:規則と気遣いの調和点
天界の会議室、ノエルは初めてこの議論の場に立ち会っていました。
テーブルの両側に、サリエルとマモンが座っています。
間には、ガブリエル嬢。そして、ノエルも同席していました。
「では、改めて状況を確認しましょう」
ガブリエル嬢が、静かに言います。
数日前のことでした。
マモンが魔界から天界を訪れた際、天使たちに贈り物を配りました。善意からの行動でしたが、天界の贈答規定に抵触したのです。
「規定では、事前申請が必要です」
サリエルが、書類を示します。
「贈答品の内容、配布対象、目的——全てを記載し、承認を得なければなりません」
その声は、冷静でした。
感情的ではなく、事実を述べています。
「承知しておりませんでした」
マモンが、申し訳なさそうに言います。
「魔界には、そのような規定がなくて」
「文化の違いは、理解しています」
サリエルが、頷きます。
「でも、規定は秩序維持のために存在します」
ノエルは、黙って聞いていました。
どちらの言い分も、理解できます。規定は必要——でも、善意を妨げるものであってはならない。
「実は、これは初めてではありません」
サリエルが、別の書類を取り出します。
「戦争直後、同じような問題がありました」
ノエルは、身を乗り出します。
「マモン様が、天界の被災地に物資を送ってくださった」
サリエルが、続けます。
「本当に助かりました。でも、手続きを経ていなかったため、受け取りに混乱が生じました」
「覚えています」
マモンが、表情を曇らせます。
「善意のつもりが、かえって迷惑を……」
「いえ」
サリエルが、首を振ります。
「感謝しています。ただ、システムがなかったのです」
その時の経験が、今の規定を作ったのでしょう。
ノエルは、理解しました。
「でも、規定が厳しすぎると」
マモンが、言います。
「気持ちを形にする前に、萎えてしまいます」
「分かります」
サリエルが、ため息をつきます。
「私も、悩んでいるのです」
その言葉に、ノエルは驚きました。
サリエルも、悩んでいる——規定を守る立場にいながら、その難しさを感じているのです。
「申請書の様式は、私が作りました」
サリエルが、告白するように言います。
「でも、複雑すぎたかもしれません」
「いえ、必要な項目だと思います」
マモンが、フォローします。
「ただ、もう少し……」
二人は、向き合っています。
対立ではなく、解決を探している——その姿勢が、見えました。
「一つ、質問してもよろしいですか」
ノエルが、口を開きます。
二人が、ノエルを見ます。
「規定の目的は、何でしょうか」
ノエルは、サリエルに尋ねます。
「混乱の防止です」
サリエルが、答えます。
「誰が、何を、どこに配ったか。記録がなければ、問題が起きた時に対処できません」
「では、記録が最も重要なのですね」
ノエルが、確認します。
「ええ」
サリエルが、頷きました。
「マモン様」
ノエルが、向き直ります。
「申請で最も負担なのは、どの部分ですか」
「事前承認です」
マモンが、率直に答えます。
「善意は、タイミングが大切です。承認を待つ間に、機会を逃すこともあります」
ノエルは、考えます。
記録が目的なら、事前である必要はないかもしれない——でも、それは素人考えでしょうか。
「あの……」
ノエルは、遠慮がちに言います。
「事後報告では、ダメなのでしょうか」
サリエルが、少し驚いた顔をします。
「つまり」
ノエルが、続けます。
「配った後で、記録を提出する形式です」
「事後報告……」
サリエルが、考え込みます。
「記録が残れば、目的は達成されます」
ノエルが、付け加えます。
「承認は事後になりますが」
サリエルは、しばらく黙っていました。
書類を見つめて、何かを考えています。
「確かに」
サリエルが、ゆっくりと言います。
「目的は記録の保存です。時系列は、必ずしも重要ではない」
「でも、悪用の可能性は」
マモンが、心配そうに言います。
「それは、内容の審査で対応できます」
サリエルが、頷きます。
「事後でも、不適切なものは指摘できます」
議論が、前に進み始めました。
「ただし」
サリエルが、条件を出します。
「事後報告は、配布から三日以内。期限は守っていただきます」
「それなら、問題ありません」
マモンが、微笑みます。
「様式も、簡略化しましょう」
サリエルが、新しい紙を取り出します。
「最低限の情報だけで」
三人で、新しい様式を検討します。
項目を減らし、記入しやすくする——でも、必要な情報は漏らさない。
時間をかけて、形が見えてきました。
「これなら、どうでしょう」
サリエルが、案を示します。
シンプルな様式でした。
でも、必要な情報は全て含まれています。
「素晴らしいです」
マモンが、感心したように言います。
「ノエルさんのおかげです」
サリエルが、礼を言います。
「いえ、お二人が歩み寄ってくださったからです」
ノエルは、謙遜しました。
ガブリエル嬢が、静かに微笑んでいます。
「良い解決ですね」
会議が、終わりました。
新しい規定が、正式に採用されることになります。
廊下を歩きながら、ノエルは思いました。
大人の議論——それは、感情的にならず、目的を見失わず、歩み寄ることなのだと。
規則と気遣い——どちらも大切にする方法は、必ずある。
それを、今日学んだのです。
窓の外では、雲がゆっくりと流れています。
天界の午後は、静かに過ぎていきました。
## あとがき
大人の議論には、感情ではなく目的がありました。規則も気遣いも守るために、時間をかけて歩み寄る。その過程から、ノエルは多くを学びます。次の物語でも、新しい発見が待っています。




