第82話:傲慢を放棄した謙虚さ
魔界の庭園、午後の光が降り注いでいます。
静かな場所でした。
ベンチに座って、一人の男性が本を読んでいます。銀色の髪が、風に揺れました。
「あの……」
ノエルは、声をかけました。
男性が、顔を上げます。
整った顔立ち。でも、その表情には自信がありませんでした。
「はい?」
彼が、小さな声で応えます。
「ルシファー様ですか」
ベルゼブブが、尋ねました。
「ああ、はい」
男性が、慌てて立ち上がります。
「申し訳ございません、気づきませんで」
その声が、申し訳なさそうでした。
何か悪いことをしたかのような、謝罪の言葉です。
「いえいえ」
ベルゼブブが、優しく言います。
「お客様をご紹介したくて」
「お客様……?」
ルシファーが、ノエルとガブリエル嬢を見ます。
「これは、とんでもない」
その言葉が、不思議でした。
とんでもない——どういう意味でしょうか。
「ガブリエル様、お久しぶりです」
ルシファーが、深々と頭を下げます。
「私のような者が、お会いするなど……」
その謙遜ぶりが、極端でした。
「久しぶりですね」
ガブリエル嬢が、穏やかに言います。
「もったいないお言葉です」
ルシファーが、また頭を下げました。
ノエルは、その様子を見ていました。
ルシファー——傲慢の悪魔。でも、目の前にいるのは、とても謙虚な人です。
「こちらは、私の近侍です」
ガブリエル嬢が、ノエルを紹介します。
「近侍の方が……」
ルシファーの目が、少し大きくなります。
「すごい方なのでしょうね」
「いえ、まだまだです」
ノエルは、謙遜しました。
「そんなことは」
ルシファーが、真剣な顔で言います。
「ガブリエル様に仕えているなんて、本当にすごいです」
「私なんて、全然ダメで……」
その言葉が、自然に出てきました。
自分を下げる——それが、彼の口癖のようです。
四人は、ベンチに座ります。
ルシファーは、端の方に遠慮がちに座りました。
「魔界は、いかがですか」
ルシファーが、小さな声で尋ねます。
「とても、良い場所です」
ノエルは、率直に答えました。
「本当ですか」
ルシファーが、驚いたように言います。
「でも、天界の方が……」
その声が、また小さくなります。
「天界も魔界も、どちらも素晴らしいです」
ガブリエル嬢が、優しく言いました。
「もったいないお言葉です」
ルシファーが、また頭を下げます。
その繰り返しでした。
何を言っても、謙遜と謝罪が返ってきます。
風が、静かに吹いていきます。
庭園の花が、ゆらりと揺れました。
「傲慢、という名前なのですよね」
ノエルは、率直に言いました。
「ええ」
ルシファーが、困ったように微笑みます。
「名前と、実態が……」
「合っていない」
ノエルが、続けました。
もう、何度目でしょうか。
同じ言葉を、魔界で聞くのは。これで、七人目です。
「私なんて、全然ダメです」
ルシファーが、自分を指します。
「皆さんの方が、ずっとすごいです」
その言葉に、嘘はありませんでした。
本気で、そう思っているのです。
「ベルゼブブ様の健康管理」
ルシファーが、数え始めます。
「アスモデウス様の恋愛論、サタン様の平和主義」
一人一人、丁寧に褒めていきます。
「レヴィアタン様の優しさ、マモン様の気前の良さ」
ルシファーの声が、少し弾みます。
「ベルフェゴール様の働きぶり」
そして、こちらを向きます。
「ガブリエル様の優雅さは、もう言葉にできません」
ルシファーが、心から言いました。
「私には、何もないのです」
その自己否定が、徹底していました。
ノエルは、聞いていました。
傲慢——その名前から想像するのは、全く違う姿です。むしろ、自己肯定感が低すぎる人でした。
「そんなことはありません」
ベルゼブブが、優しく言います。
「ルシファー様は、魔界を支えてくださっています」
「いえいえ」
ルシファーが、首を振ります。
「私には、無理です」
その謙遜が、また始まりました。
時間が、ゆるやかに流れていきます。
庭園には、穏やかな空気が満ちていました。
「褒められると、困ってしまうのです」
ルシファーが、少し照れたように言います。
「自分なんて、大したことないのに」
その表情が、本当に困っていました。
褒め言葉を、受け取れないのです。
ガブリエル嬢は、静かに微笑んでいます。
いつものように、少し眠そうですが、優しい目でルシファーを見ていました。
「名前は、ただの記号です」
ルシファーが、小さく呟きます。
「でも、傲慢という名前は……重いです」
その声に、苦しさがありました。
名前に縛られている——そんな風に見えました。
「傲慢とは、正反対の自分」
ルシファーが、続けます。
「それでも、この名前で生きていくしかないのです」
ノエルは、思いました。
名前——それは、時として重荷になるのだと。特に、実態と違う時には。
「でも、皆さんは優しいです」
ルシファーが、少し笑顔になります。
「名前で判断せず、私を見てくれます」
その笑顔が、温かかったです。
風が、また吹いていきます。
銀色の髪が、ふわりと舞いました。
ノエルは、胸に刻みました。
七人の大悪魔——全員が、名前と正反対でした。暴食は小食、色欲は純情、憤怒は平和、嫉妬は賞賛、強欲は気前よく、怠惰は勤勉、傲慢は謙虚。
偏見——それは、完全に崩れました。
もう、悪魔という言葉に意味はありません。天使と悪魔。その境界線は、どこにあるのでしょうか。
「みんな、良い人たちです」
ルシファーが、静かに言います。
「私だけが、足を引っ張っているような……」
「そんなことはありません」
ガブリエル嬢が、優しく言いました。
「本当に……?」
ルシファーが、不安そうに尋ねます。
「ええ」
ガブリエル嬢が、こくりと頷きました。
その一言で、ルシファーは少し安心したようです。
表情が、やわらかくなりました。
庭園の空が、ゆっくりと色を変えていきます。
午後の光が、優しく降り注いでいました。
ノエルは、思いました。
分類——それは、意味のないものでした。大切なのは、その人自身。どう生きているか。何を大切にしているか。
七人の大悪魔と会って、ノエルは理解しました。
善悪の境界線など、最初からなかったのだと。人は、ただ人として生きているだけなのだと。
「また、お会いできますか」
ルシファーが、遠慮がちに尋ねました。
「もちろんです」
ノエルは、微笑みます。
「ありがとうございます」
ルシファーが、嬉しそうに頭を下げました。
傲慢を放棄した謙虚さ——。
その姿が、最後の偏見を消し去りました。
魔界の午後は、今日もゆるやかに過ぎていきます。
## あとがき
七人目の出会いで、すべての偏見が溶けていきました。名前は記号に過ぎず、大切なのは心そのもの。天使も悪魔も、ただ人として生きているだけ。新しい理解が、静かに始まります。




