第77話:色欲に反する純愛主義者
魔界の宮殿、応接室。
「次は、アスモデウス様をご紹介いたします」
ベルゼブブが、案内してくれました。
ノエルは、少し緊張していました。
色欲の悪魔——その名前から想像されるのは、危険な雰囲気の人物です。けれど、これまで会った悪魔たちは、皆名前とは正反対でした。
扉が開きます。
入ってきたのは、優雅な身のこなしの男性でした。
美しい金髪に、整った顔立ち。
服装も上品で、紳士的な雰囲気です。確かに、魅力的な外見をしていました。
「お待たせいたしました」
彼は、丁寧に頭を下げます。
「アスモデウスと申します」
その声は、落ち着いていました。
品があり、どこか教養を感じさせる話し方です。
「ガブリエル様、お久しぶりです」
アスモデウスが、微笑みました。
「ええ、お元気そうで」
ガブリエル嬢が、優雅に頷きます。
「こちらは?」
アスモデウスの視線が、ノエルに向きました。
「私の近侍、ノエルです」
ガブリエル嬢が、紹介します。
「初めまして」
ノエルは、礼をしました。
「これはこれは」
アスモデウスが、丁寧に応えます。
「ようこそ、魔界へ」
その態度は、紳士そのものでした。
危険な雰囲気など、どこにもありません。むしろ、礼儀正しく品のある人物です。
「お座りください」
アスモデウスが、席を勧めてくれました。
三人は、ソファに腰を下ろします。
給仕が、お茶を運んできました。美しい茶器に、丁寧に注がれます。
「魔界は、いかがですか」
アスモデウスが、穏やかに尋ねました。
「とても美しい場所です」
ノエルは、率直に答えます。
「それは嬉しいお言葉です」
アスモデウスが、満足そうに微笑みました。
お茶を一口飲むと、優しい味がしました。
魔界のお茶も、天界と変わらない美味しさです。
「ところで」
アスモデウスが、少し声を弾ませます。
「恋愛について、お考えをお聞かせ願えますか」
「恋愛……ですか?」
ノエルは、突然の質問に戸惑いました。
「ええ」
アスモデウスの目が、輝きます。
「恋愛とは、清らかなものです」
その言葉に、驚きました。
色欲の悪魔が、清らかという言葉を使うのです。
「愛は、美しい」
アスモデウスが、続けます。
「純真な心から生まれる、最も尊い感情です」
その表情は、真剣でした。
冗談で言っているのではありません。本気で、そう信じているようです。
「色欲、という名前なのですが」
ノエルは、率直に言いました。
「ああ、はい」
アスモデウスが、少し困ったように笑います。
「名前と実態が、合っていないのです」
また、その話でした。
暴食のベルゼブブも、同じことを言っていました。
「私は、純愛を信じています」
アスモデウスが、胸に手を当てます。
「不純な考えは、持ちません」
その姿勢が、堂々としていました。
恥じることなく、自分の価値観を語っています。
「恋愛とは、心と心の結びつきです」
アスモデウスが、熱を込めて言います。
「互いを尊重し、思いやり、純真な気持ちで向き合う——それが真の愛」
ノエルは、聞き入っていました。
色欲の悪魔から、純愛論を聞くことになるとは。想像もしていませんでした。
「一目惚れも、素敵ですね」
アスモデウスが、夢見るように言います。
「運命の出会い——魂が引き寄せられる瞬間」
その表情が、純粋でした。
まるで、恋に憧れる少年のようです。
「でも、時間をかけて育む愛も良いです」
アスモデウスが、続けます。
「友情が愛情に変わる——それも、美しい物語です」
ガブリエル嬢が、静かに微笑んでいます。
彼の恋愛論を、優しく見守っているようでした。
「アスモデウス様は、恋愛がお好きなのですね」
ノエルが、率直に言います。
「ええ」
アスモデウスが、照れたように頷きました。
「でも、理想を語るばかりで……実際には」
その声が、小さくなります。
「実際には?」
「経験が、ないのです」
アスモデウスが、顔を赤くしました。
ノエルは、驚きました。
色欲の悪魔が、恋愛経験がない——その矛盾が、あまりにも大きすぎます。
「理想が高すぎて」
アスモデウスが、困ったように笑います。
「なかなか、踏み出せなくて」
その姿が、どこか可愛らしかったです。
大悪魔という肩書きに反して、とても純情な人でした。
「純真な心が、大切ですね」
アスモデウスが、再び真剣な表情になります。
「計算や打算ではなく、純粋な気持ち」
その言葉に、嘘はありませんでした。
心から、そう信じているのです。
「素敵な考えですね」
ノエルは、素直に言いました。
「ありがとうございます」
アスモデウスが、嬉しそうに微笑みます。
「でも、周りからはよく驚かれます」
「それは……そうでしょうね」
ノエルも、正直に答えました。
色欲という名前——。
でも、実際は誰よりも恋愛を美しく捉えている人。その矛盾が、不思議でした。
「名前は、ただの記号です」
アスモデウスが、穏やかに言います。
「大切なのは、心の在り方ですから」
その言葉は、ベルゼブブも言っていました。
魔界の人たちは、皆そう考えているのかもしれません。
「恋愛の話は、いくらでもできます」
アスモデウスが、楽しそうに言いました。
「古今東西の恋物語——素晴らしいですね」
その目が、本当に輝いていました。
恋愛という題材に、純粋な憧れを抱いているのです。
「でも、語りすぎると長くなってしまうので」
アスモデウスが、自制するように言います。
「この辺りで」
その謙虚さも、また彼らしいものでした。
お茶を飲みながら、会話は続きます。
アスモデウスは、時折恋愛論に戻りそうになりますが、すぐに話題を変えます。自分の好きな話ばかりしないよう、気を遣っているようでした。
「天界では、恋愛は多いのですか」
アスモデウスが、興味深そうに尋ねます。
「そうですね……」
ノエルは、考えます。
「あまり多くはないかもしれません」
「そうですか」
アスモデウスが、少し残念そうにします。
「もっと、皆さん恋をすれば良いのに」
その純粋な願いが、微笑ましかったです。
時間が、ゆっくりと流れていきます。
アスモデウスとの会話は、予想外に楽しいものでした。
ノエルは、思いました。
色欲の悪魔——その名前から想像していた人物とは、全く違う。むしろ、誰よりも純粋に恋愛を尊んでいる人なのだと。
「また、お話ししましょう」
アスモデウスが、立ち上がります。
「今日は、楽しかったです」
「こちらこそ」
ノエルは、礼をしました。
「恋愛は、素晴らしいですよ」
アスモデウスが、最後にそう言います。
「ノエルさんも、いつか」
その言葉に、照れくささがありました。
自分の経験がないのに、他人に勧める——その矛盾に、彼自身が気づいているようです。
部屋を出ると、ベルゼブブが待っていました。
「アスモデウス様は、本当に純粋な方なのです」
彼女が、優しく言います。
「そうですね」
ノエルは、頷きました。
名前と実態の違い——。
それを知ることで、偏見が消えていく。魔界での体験は、そんな連続でした。
魔界の午後が、静かに流れていきます。
## あとがき
色欲の名を持つ純愛主義者。理想を語り、恥じらう姿は、誰よりも純粋でした。名前に惑わされず、心を見ること。次の物語でも、新しい発見が待っています。




