第75話:暴食の名を持つ健康志向者
魔界の宮殿、昼食の時間。
「お二人とも、お昼はいかがですか」
ベルゼブブが、優雅に尋ねました。
組織の案内を終えて、ちょうど昼時になったのです。
ノエルは、少し空腹を感じていました。朝から魔界を巡り、たくさん歩いたからでしょう。
「ぜひ、お願いします」
ガブリエル嬢が、穏やかに答えます。
「では、食堂にご案内いたしますね」
ベルゼブブが、歩き始めました。
廊下を進むと、良い香りが漂ってきます。
魔界の料理——どんな味がするのでしょうか。ノエルは、少し期待していました。
食堂に到着しました。
広々とした空間に、いくつものテーブルが並んでいます。窓からは、魔界の街並みが見えました。
「こちらへどうぞ」
ベルゼブブが、窓際の席に案内してくれます。
三人が席に着くと、給仕の悪魔が現れました。
丁寧に水を注いでくれます。透明な水は、天界のものと変わりませんでした。
「本日のお勧めは、こちらです」
給仕が、メニューを差し出します。
ノエルは、それを見ました。
魔界料理の名前が、いくつも並んでいます。見たことのない料理ばかりでしたが、説明を読むと美味しそうです。
「私は、いつものもので」
ベルゼブブが、給仕に伝えました。
「かしこまりました」
給仕が、丁寧に頭を下げます。
ノエルとガブリエル嬢も、それぞれ注文しました。
給仕が去っていくと、静かな時間が訪れます。
「暴食、という名前なのですね」
ノエルは、率直に言いました。
「でも、とても控えめな印象です」
ベルゼブブが、少し困ったように笑います。
「ええ……名前と実態が、合っていないのです」
「と、言いますと?」
「実は、私……あまり食べられないのです」
彼女の声が、小さくなりました。
「食べ過ぎは、体に悪いですから」
ノエルは、驚きました。
暴食の大悪魔が、小食——想像していたイメージと、全く逆です。
「少量で十分なのです」
ベルゼブブが、続けます。
「質の良いものを、適度に。それが一番」
その言葉には、確信がありました。
健康への意識が、とても高いようです。
「有機栽培にも、こだわっているのですよ」
彼女が、嬉しそうに言います。
「魔界の農園で、無農薬の野菜を育てています」
「そうなのですか」
ノエルは、感心しました。
「ええ。体に良いものを、少しだけ」
ベルゼブブの目が、輝いています。
「それが、健康の秘訣です」
暴食——その名前から想像していたのは、大量の食事を貪る姿でした。
でも、目の前にいるのは、健康を大切にする上品な女性です。
「名前で、誤解されることも多いのです」
ベルゼブブが、少し寂しそうに言いました。
「暴食と聞くと、皆さん驚かれます」
「申し訳ありません」
ノエルは、素直に謝りました。
「私も、偏見を持っていました」
「いえいえ」
ベルゼブブが、優しく首を振ります。
「仕方のないことです。でも、こうして知っていただけて嬉しいです」
料理が、運ばれてきました。
ノエルとガブリエル嬢の前には、色鮮やかな料理が並びます。見た目も美しく、食欲をそそりました。
そして、ベルゼブブの前に置かれたのは——。
小さな皿に、少量のサラダ。
本当に、控えめな量です。彩りは美しく、丁寧に盛り付けられていますが、量は驚くほど少ないものでした。
「これが、私の定食です」
ベルゼブブが、満足そうに言います。
「新鮮な野菜と、少しのナッツ。十分です」
ノエルは、その皿を見つめました。
暴食の大悪魔の食事とは、とても思えません。むしろ、修行僧のようです。
「いただきます」
三人は、食事を始めました。
ノエルは、魔界の料理を口にします。
味は、思っていた以上に繊細でした。天界の料理とは違う風味ですが、美味しいことに変わりありません。
ガブリエル嬢も、ゆっくりと食べています。
いつものように、少しずつ。彼女も、あまり量を食べない方でした。
ベルゼブブは、さらにゆっくりです。
一口ずつ、丁寧に味わっています。量が少ないからこそ、大切に食べているようでした。
「美味しいですね」
ノエルが、率直に言います。
「ありがとうございます」
ベルゼブブが、嬉しそうに微笑みました。
「魔界の料理人たちは、とても優秀なのです」
食事は、静かに進みました。
窓の外では、魔界の人々が行き交っています。平和な昼下がりの風景でした。
「ガブリエル様も、あまり召し上がりませんね」
ベルゼブブが、気づいたように言いました。
「ええ」
ガブリエル嬢が、頷きます。
「まどろみには、軽い食事が一番です」
「分かります」
ベルゼブブが、共感したように言います。
「食べ過ぎると、体が重くなりますから」
二人の会話を聞きながら、ノエルは思いました。
少食という共通点——意外なところで、天使と悪魔が繋がっているのです。
「少量でも、質が良ければ満足できます」
ベルゼブブが、サラダを一口。
「それに、食べ物を大切にすることにもなります」
その姿勢が、とても真摯でした。
食への敬意。健康への配慮。そして、節制の美徳。
「私、誤解していました」
ノエルは、正直に言いました。
「暴食という名前から、勝手にイメージを作っていました」
「気にしないでください」
ベルゼブブが、優しく微笑みます。
「名前は、ただの記号です。大切なのは、中身ですから」
その言葉が、深く心に残りました。
名前や肩書きに惑わされず、本質を見ること。それが、真の理解への道なのでしょう。
食事が終わりました。
ベルゼブブの皿は、綺麗に空になっています。少量でも、きちんと完食していました。
「ごちそうさまでした」
三人は、同時に言います。
「お口に合いましたか」
ベルゼブブが、嬉しそうに尋ねました。
「とても美味しかったです」
ノエルは、心から答えます。
「それは良かった」
ベルゼブブが、ほっとしたように微笑みました。
食堂を出ると、廊下には午後の光が差していました。
ベルゼブブは、二人を次の場所へ案内してくれます。
歩きながら、ノエルは思いました。
悪魔という存在への偏見が、また一つ崩れたのだと。名前と実態の違い。それを知ることの大切さを、身をもって学んだのです。
「悪魔にしては、善行が過ぎますね」
ノエルが、冗談めかして言いました。
「あら」
ベルゼブブが、楽しそうに笑います。
「悪魔も、健康が大事ですから」
その笑顔が、温かかったです。
天使も悪魔も、根本では変わらない——そんな真実が、少しずつ見えてきました。
魔界の午後が、ゆっくりと流れていきます。
## あとがき
名前と実態の違いを知る時、偏見は静かに溶けていきます。暴食の名を持つ健康志向者との出会いは、本質を見ることの大切さを教えてくれました。次の物語で、新たな共通点が見つかります。




