第74話:もう一つの秩序ある世界
応接室の扉が、静かに開きました。
「お待たせいたしました」
入ってきたのは、優雅な雰囲気の女性でした。
長い髪に、小さな角。
服装は黒を基調としていますが、どこか上品な印象です。彼女は、二人に向かって丁寧に頭を下げました。
「ベルゼブブと申します」
その声は、穏やかでした。
暴食の大悪魔——。
ノエルは、事前に聞いていた名前を思い出しました。けれど、目の前にいるのは、威圧的な存在ではありません。
「ガブリエル様、お久しぶりです」
ベルゼブブが、微笑みました。
「ええ、お元気そうで」
ガブリエル嬢も、優しく応えます。
「こちらは?」
ベルゼブブの視線が、ノエルに向きました。
「私の近侍、ノエルです」
ガブリエル嬢が、紹介します。
「初めまして。ノエルと申します」
ノエルは、礼をしました。
「まあ、近侍の方が」
ベルゼブブが、嬉しそうに目を細めます。
「よくいらしてくださいました」
その態度には、敵意のかけらもありませんでした。
むしろ、歓迎してくれているようです。ノエルは、少しだけ緊張が解けるのを感じました。
「今日は、魔界のことをご案内しようと思います」
ベルゼブブが、言いました。
「組織の仕組みなど、興味はおありですか」
「はい、ぜひ」
ノエルは、素直に答えます。
「では、参りましょう」
ベルゼブブが、歩き始めました。
三人は、廊下を進みます。
壁には、様々な紋章が飾られていました。七つの大きな紋章——おそらく、七大悪魔を表すものでしょう。
「魔界は、七大悪魔が統治しています」
ベルゼブブが、説明を始めました。
「それぞれに役割があり、分担して運営しているのです」
「天界と、似ていますね」
ノエルが、率直に言いました。
「ええ」
ベルゼブブが、頷きます。
「実は、組織構造はかなり似ているのです」
角を曲がると、広い部屋がありました。
中には、大きな円卓が置かれています。七つの席——評議会の場でしょうか。
「ここで、定期的に会議を行います」
ベルゼブブが、部屋に案内してくれました。
ノエルは、部屋を見回します。
天界の評議会と、雰囲気が似ていました。厳かで、でも温かみのある空間です。
「私は、魔界の食糧管理を担当しています」
ベルゼブブが、自分の席を指しました。
「暴食と呼ばれていますが……実は、小食なのです」
「え?」
ノエルは、驚きました。
「ええ」
ベルゼブブが、少し困ったように笑います。
「食べ過ぎは体に悪いですから」
その姿が、どこか親しみやすかったです。
大悪魔という肩書きに反して、とても人間味のある人でした。
「他の皆さんも、それぞれ担当があります」
ベルゼブブが、続けます。
アスモデウスは、文化と芸術。
サタンは、外交と調停。
レヴィアタンは、海洋資源。
マモンは、財政と経済。
ベルフェゴールは、労働管理。
ルシファーは、総合調整——。
「本当に、天界と似ていますね」
ノエルは、感心しました。
「統治の基本は、どこでも同じなのでしょう」
ベルゼブブが、優しく言います。
次の部屋に案内されました。
そこには、多くの書類が整然と並んでいます。魔界の行政文書でしょうか。
「魔界も、書類仕事が多いのです」
ベルゼブブが、少し疲れたように言いました。
「……大変ですね」
ノエルは、共感を込めて言います。
「ええ」
ベルゼブブが、こくりと頷きました。
「でも、やらないわけにはいきませんから」
その姿勢が、真面目でした。
大悪魔といえども、日常の業務に追われているのです。天使も悪魔も、変わらないのだと思いました。
廊下を歩きながら、他の悪魔たちともすれ違います。
皆、丁寧に礼をしてくれました。中には、恥ずかしそうに会釈だけする者もいます。
「魔界の方々は、皆さん優しいですね」
ノエルが、素直に言いました。
「まあ、そう言っていただけると嬉しいです」
ベルゼブブが、照れたように笑います。
「私たち、悪魔という名前ですが……実際は、普通の者たちですから」
その言葉に、嘘はありませんでした。
魔界の人々は、天界の人々と何も変わりません。同じように働き、同じように悩み、同じように笑っています。
「あ、マモンさん」
ベルゼブブが、向こうから歩いてくる人物に声をかけました。
金色の髪に、鋭い目つき。
でも、近づいてくると、その表情は穏やかでした。
「ベル様、これは」
マモンが、立ち止まります。
「天界からのお客様です」
ベルゼブブが、紹介しました。
「まあ、ようこそ」
マモンが、深々と頭を下げます。
「何かご入用でしたら、遠慮なく」
その気前の良さに、ノエルは驚きました。
強欲の悪魔と聞いていたのに、まるで逆です。
「ありがとうございます」
ノエルは、礼を返しました。
マモンは、満足そうに微笑んで去っていきます。
その後ろ姿を見送りながら、ノエルは思いました。名前と実際は、こんなにも違うのだと。
「皆、良い人たちなのです」
ベルゼブブが、優しく言いました。
「戦争の時は……色々ありましたが」
その声が、少し寂しそうでした。
でも、すぐに笑顔を取り戻します。
「今は、平和ですから」
案内は、続きました。
魔界図書館、訓練場、癒しの間——天界と同じような施設が、整然と配置されています。
「組織として、よく整っていますね」
ノエルは、率直に感想を述べました。
「ありがとうございます」
ベルゼブブが、嬉しそうに頷きます。
「私たちも、日々努力していますから」
その姿勢が、真摯でした。
組織を運営する責任感。より良くしようとする意志。それは、天界と何も変わりません。
窓の外を見ると、魔界の街並みが広がっています。
紫の空の下、人々が行き交っていました。平和な日常が、そこにありました。
「似ているのですね」
ノエルが、静かに言います。
「天界と魔界」
「ええ」
ガブリエル嬢が、隣で頷きました。
「違うのは、色と形だけです」
ベルゼブブが、二人を見て微笑みます。
「本質は、同じなのかもしれませんね」
その言葉が、深く心に残りました。
統治の仕組み、人々の暮らし、組織への責任感——。
異なる世界でも、共通する原理があるのです。それは、きっと普遍的なものなのでしょう。
空が、ゆっくりと色を変えていきます。
魔界の一日も、静かに流れていきました。
ノエルは、胸に刻みました。
世界は違っても、人の営みは同じなのだと。偏見ではなく、理解を持つこと。それが、真の平和への道なのだと。
## あとがき
秩序と責任、そして真摯な努力。異なる世界にも、同じ原理が息づいていました。名前に惑わされず、本質を見ること。次は、個性豊かな悪魔たちとの出会いが待っています。




