第73話:初めて踏む異界の地
雲の上の、とある朝。
ノエルは、執務室の窓際に立っていました。
今日は、特別な日です。
初めて魔界を訪問する——その予定が、昨夜決まったのでした。緊張はありましたが、それ以上に期待が勝っています。
「ノエル、参りましょうか」
ガブリエル嬢が、静かに声をかけました。
「はい」
ノエルは、頷きました。
魔界——。
その名前だけで、かつては恐ろしいイメージがありました。邪悪な力が渦巻く、暗く冷たい世界。天使として聞かされてきた話は、そんなものばかりだったのです。
二人は、天界の転移門へ向かいました。
普段は使われない、大きな門です。魔界との往来のために、平和協定後に設けられたのだと聞いています。
門の前に立つと、守衛の天使が丁寧に礼をしました。
「ガブリエル様、ノエル。お気をつけて」
「ありがとうございます」
ノエルは、落ち着いて応えます。
ガブリエル嬢が、静かに頷きました。
門が、ゆっくりと開き始めます。
光が、渦を巻いていました。
その向こうに見えるのは——何も見えません。ただ、光だけが流れています。
「では」
ガブリエル嬢が、一歩を踏み出しました。
ノエルも、続きます。
光の中へ——一歩、また一歩と進みました。視界が真っ白になって、体が軽くなる感覚がありました。
転移魔法の感覚は、以前にも経験したことがあります。
天界内の遠距離移動で、何度か使ったことがありました。けれど、異界への転移は初めてです。
どれくらい歩いたでしょうか。
光が、少しずつ薄れていきます。
そして——。
ノエルは、目を見開きました。
そこに広がっていたのは、想像していた世界とは全く違うものでした。
空は、深い紫色をしていました。
けれど、それは不気味な色ではありません。夕暮れの空のように、どこか優しい色合いです。雲は銀色に輝いて、星のような光を放っていました。
地面には、見たこともない植物が生えています。
黒い花びらに、金色の縁取り。茎は透き通るような青で、風に揺れるたび、かすかに音を立てました。
「これが……魔界」
ノエルの声が、自然に漏れます。
邪悪な世界——。
そんなイメージは、どこにもありませんでした。むしろ、静かで美しい場所です。天界とは違う美しさが、確かにここにありました。
「意外でしたか」
ガブリエル嬢が、小さく微笑みます。
「はい」
ノエルは、正直に答えました。
「もっと、暗くて恐ろしい場所だと思っていました」
「私も、初めて来たときは驚きました」
彼女が、周囲を見回します。
「偏見とは、恐ろしいものですね」
その言葉が、胸に響きました。
自分が持っていた先入観。それが、どれほど現実とかけ離れていたか。今、身をもって知ったのです。
遠くに、建物が見えます。
魔界の宮殿でしょうか。黒い石で作られた、荘厳な造りです。けれど、どこか温かみがありました。窓から漏れる光が、優しく揺れています。
「参りましょう」
二人は、並んで歩き始めました。
道は、滑らかな石畳でした。
天界の雲の道とは違う、しっかりとした感触です。ノエルは、周囲を観察しながら歩きます。
魔界の住人らしき姿も、遠くに見えました。
皆、普通に生活しているようです。笑い声も聞こえてきます。
「あそこに、市場があります」
ガブリエル嬢が、指を差しました。
確かに、賑やかな場所がありました。
色とりどりの品物が並んでいます。果物、野菜、布、装飾品——天界の市場と、あまり変わりません。
「魔界の方々も、普通に暮らしているのですね」
ノエルが、率直に言いました。
「ええ」
ガブリエル嬢が、頷きます。
「天使も悪魔も、日常は変わりません」
その言葉に、深い意味を感じました。
種族が違っても、生活の基本は同じ。食べて、働いて、笑って——。当たり前のことが、今は特別に思えます。
宮殿に、近づいていきます。
門の前に、守衛が立っていました。黒い鎧を着た、魔界の兵士です。
「ガブリエル様、ようこそ」
守衛は、丁寧に礼をしてくれました。
「お世話になります」
ノエルも、礼を返します。
守衛の表情は、穏やかでした。
敵意も警戒も、何も感じられません。むしろ、歓迎してくれているようです。
門が開き、中に入ります。
広い廊下が続いていました。壁には、絵画が飾られています。魔界の歴史を描いたものでしょうか。美しい色使いで、物語が紡がれていました。
「こちらです」
案内役の悪魔が現れました。
若い女性です。
角が小さく生えていますが、表情は優しそうでした。笑顔で、二人を先導してくれます。
廊下を歩きながら、ノエルは観察を続けました。
宮殿の造りは、天界とは異なる建築様式です。でも、整然としていて、美しい。機能性と美観が両立していました。
「お待たせいたしました」
案内役が、大きな扉の前で止まります。
扉が、静かに開きました。
中には、広い応接室がありました。窓からは、魔界の街並みが見えます。美しい景色でした。
「少々お待ちください。ベルゼブブ様がすぐに参ります」
案内役が、礼をして去っていきます。
ノエルは、窓辺に近づきました。
魔界の街——紫の空の下、銀の雲が流れています。建物は様々な色で、整然と並んでいました。
「綺麗ですね」
自然に、言葉が出ます。
「ええ」
ガブリエル嬢が、隣に立ちました。
「魔界には、魔界の美しさがあります」
ノエルは、街を眺めながら思いました。
ここで生活している人たちも、天界の人たちと変わらないのだと。同じように笑い、同じように働き、同じように生きている。
かつて戦った相手——。
でも、今目の前にあるのは、平和な日常でした。戦争の記憶を乗り越えて、ここまで来たのです。
空が、かすかに色を変えました。
魔界の時間が、ゆっくりと流れていきます。
ノエルは、胸に刻みました。
偏見を捨てること。目で見て、心で感じること。それが、本当の理解への第一歩なのだと。
魔界は、邪悪な場所ではありませんでした。
天界とは違う、けれど同じように美しい——もうひとつの世界。
窓の外で、銀の雲が、静かに流れていきました。
## あとがき
恐れていた世界は、想像とは違う姿で迎えてくれました。偏見が溶けていく瞬間、新しい理解が始まります。次の物語では、魔界の人々との出会いが待っています。




