第72話:平和協定誕生の軌跡
雲の上の、とある静かな午後。
天界の古文書保管室に、ノエルは足を踏み入れました。
魔界との交流が始まり、新しい世界に触れたばかりです。
けれど、まだ知らないことがたくさんありました。天魔平和協定——その名前は知っていても、どのように生まれたのか。詳しい経緯は、聞いたことがなかったのです。
「ノエル、こちらです」
ガブリエル嬢が、奥の書架を指しました。
彼女は今日、珍しく起きていました。
大切な歴史を伝えるためでしょうか。普段より、少しだけ背筋が伸びています。
「平和協定の記録は、ここに保管されています」
彼女の指先が、古い革装の書物に触れました。
ノエルは、その重厚な表紙を見つめます。
何十年も前の出来事。けれど今も、天界と魔界の関係を支える大切な取り決めでした。
「始まりは、戦争の終結からでした」
ガブリエル嬢が、ゆっくりと語り始めます。
天魔大戦の終結——。
双方が疲弊し、これ以上の戦いは誰も望まない状態になったとき。最初の停戦交渉が、静かに始まったのだそうです。
「でも、簡単ではありませんでした」
彼女の声が、少し沈みました。
ノエルは、書物のページを開きます。
細かな文字で、交渉の記録が綴られていました。第一回会談、第二回会談——何度も何度も、繰り返された話し合いの痕跡です。
「最初の会談は、三日で決裂しました」
ガブリエル嬢が、ページを指します。
そこには、簡潔な記述がありました。
双方の主張が激しく対立し、合意には至らなかった——と。戦争は終わっても、心の傷は深かったのです。
「二回目も、四回目も、同じでした」
彼女の指が、次々とページをめくります。
失敗の記録が、続いていました。
それでも諦めずに、何度も席に着いた人たち。その根気強さが、ページから伝わってきます。
ノエルは、静かに読み進めました。
途中で何度か、交渉が完全に中断した時期もあったようです。お互いへの不信感が、再び高まった時期もありました。
「転機は、十回目の会談でした」
ガブリエル嬢が、特定のページで手を止めます。
そこには、名前が記されていました。
天界側の代表——ミカエル。魔界側の代表——アスモデウス。かつて激しく戦った二人が、交渉の席に着いたのです。
「二人は、まず謝罪から始めたそうです」
ガブリエル嬢の声が、やわらかくなりました。
お互いに、戦争で与えた傷を謝った——。
その姿勢が、長く閉ざされていた心を開いたのだと。ノエルは、その場面を想像しました。
「それから、少しずつ前に進めました」
彼女が、次のページを開きます。
小さな合意が、積み重ねられていきました。
戦闘行為の完全停止。捕虜の交換。被害地域の復興協力。一つ一つは小さな約束でしたが、確実に信頼が育っていったのです。
ノエルは、記録を読みながら思いました。
平和は、一瞬で訪れるものではないのだと。何度も失敗して、それでも諦めずに対話を続けた結果なのだと。
「最終的な協定文は、二十回目の会談で完成しました」
ガブリエル嬢が、別の書物を取り出します。
それは、正式な協定書でした。
美しい装丁の中に、丁寧な文字で条文が並んでいます。戦争の放棄、相互不可侵、文化交流の促進——。
「署名は、全員で行いました」
彼女が、最後のページを開きます。
そこには、七つの天使の署名がありました。
ミカエル、ラファエル、ウリエル、サリエル、ラグエル、パヌエル——そして、ガブリエル。どの筆跡も、力強く刻まれています。
「魔界側も、同じです」
向かいのページには、七つの悪魔の署名が。
ベルゼブブ、アスモデウス、サタン、レヴィアタン、マモン、ベルフェゴール、ルシファー——。かつての敵が、同じ約束に名を連ねていました。
ノエルは、その重みを感じました。
一人一人の署名に、どれだけの決意が込められていたのか。簡単には想像できません。
「調印式の日は、雨でした」
ガブリエル嬢が、窓の外を見ます。
雨の日の調印式——。
けれど、それが終わった瞬間、雲の切れ目から光が差したのだそうです。まるで祝福のように、天界と魔界を照らしたのだと。
「それから、毎年更新してきました」
彼女の声が、誇らしげでした。
一年ごとの更新作業。
形式的なものではなく、お互いの状況を確認し合う大切な機会です。信頼は、継続的な努力で維持されるものでした。
ノエルは、書物を閉じました。
平和協定——その名前の裏に、こんなにも多くの人の努力があったのです。何度も失敗しながら、諦めずに対話を続けた人たち。
「簡単ではなかったのですね」
ノエルが、率直に言いました。
「ええ」
ガブリエル嬢が、静かに頷きます。
「平和は、誰かが勝手に用意してくれるものではありません」
その言葉が、心に残りました。
平和は、作るもの。守るもの。多くの人の意志と努力の結果なのだと。
「私たちも、調印に立ち会いました」
ガブリエル嬢が、少し遠い目をしました。
彼女も、あの場にいたのです。
ペンを握り、名前を書いた。その時の緊張と希望を、今も覚えているのでしょう。
「不安もありました」
彼女の声が、かすかに震えます。
「本当に、うまくいくのかと」
ノエルは、黙って聞きました。
大天使でも、不安を感じるのです。それほど、平和への道は不確かで、勇気の要ることでした。
「でも、信じることにしました」
ガブリエル嬢が、優しく微笑みます。
「お互いを、そして未来を」
その笑顔が、温かかったです。
不安を乗り越えて、希望を選んだ人の表情でした。
空が、少しずつ色を変えていきます。
午後の光が、古文書保管室に優しく差し込みました。
ノエルは、思いました。
今、自分が魔界の人たちと交流できているのは、こうした先人たちの努力のおかげなのだと。平和は、当たり前ではないのだと。
「ノエル」
ガブリエル嬢が、静かに呼びました。
「はい」
振り向くと、彼女が真剣な表情をしています。
「平和を守るのは、私たちの責任です」
その言葉には、重みがありました。
「次の世代に、この平和を引き継ぐために」
ノエルは、深く頷きました。
自分も、その責任の一端を担っているのだと。歴史を知ることは、未来への責任を知ることでもあったのです。
雲海の向こうで、鐘の音が響きます。
おやつの時間を告げる、優しい音色でした。
「では、おやつにしましょうか」
ガブリエル嬢が、いつもの穏やかな表情に戻ります。
ノエルは、書物を丁寧に戻しました。
今日学んだことを、胸に刻んで。
平和は、奇跡ではなく、努力の結果。
そして、守り続けるべき大切な宝物——。
二人は、静かに保管室を後にしました。
天界の午後が、ゆっくりと流れていきます。
## あとがき
幾度もの失敗を重ね、それでも諦めなかった人たち。彼らの努力が、今の穏やかな日々を作りました。歴史を知ることは、未来への責任を知ること。次の物語で、また新しい一歩が始まります。




