第56話:音楽に宿る新たな魅力
雲の上の、とある静かな午後。
執務室の窓から、穏やかな光が差し込んでいました。
ノエルは、書類整理の手を止めました。
ガブリエル嬢が、何やら楽譜を手に持って、こちらに歩いてくるのが見えたからです。
「ノエル、少しよろしいですか」
彼女は、いつものゆったりした口調で尋ねました。
「はい、何でしょう」
ノエルは、作業を一旦置いて、向き直ります。
ガブリエル嬢は、楽譜を差し出しました。
「サリエルと共演されるそうですね。来月の音楽祭で」
「ええ、そうなんです」
前回の音楽会の後、サリエルから声をかけられたのです。歌とバイオリンの共演——ノエルは、その提案を嬉しく受け入れました。
「実は……少し曲を作ってみました」
ガブリエル嬢は、楽譜をノエルの手に載せます。
「よろしければ、これを演奏していただけませんか」
ノエルは、目を見開きました。
「曲を……作られたのですか」
「ええ。お二人が嬉しそうに話しているのを見て」
ガブリエル嬢は、小さく頷きます。
楽譜を開くと、丁寧に書かれた音符が並んでいました。
旋律の流れが、美しい弧を描いています。ページをめくると、歌詞も添えられていました。
「……すごい」
言葉が、自然に漏れました。
「サリエルにも渡しておきますね」
ガブリエル嬢は、優しく微笑みました。
「練習、頑張ってください」
その日から、ノエルとサリエルの練習が始まりました。
最初は、それぞれ個別に譜面を読み込みます。
ガブリエル嬢の曲は、技術的には難しくありませんでした。
でも、旋律が持つ独特の雰囲気を表現するのは、簡単ではありません。ノエルは、何度も何度も、同じフレーズを繰り返しました。
一週間後、二人は初めて合わせ練習をしました。
天界の小さな練習室で、サリエルの歌とノエルのバイオリンが重なります。
「……合いますね」
サリエルが、驚いたように言いました。
確かに、そうでした。
歌声とバイオリンが、自然に溶け合っていきます。まるで最初から、二人で演奏することを前提に作られたかのように。
練習は、週に三回のペースで続きました。
二人とも真面目な性格です。細部まで丁寧に確認しながら、完成度を高めていきました。
ガブリエル嬢は、時折練習を見に来ました。
何も言わず、静かに聴いているだけです。でも、満足そうに頷く姿を見ると、ノエルは少し嬉しくなりました。
そして——音楽祭の日が来ました。
天界の中央広場は、朝から賑わっていました。
年に一度の祭典です。色とりどりの装飾が、雲の上に彩りを添えています。
ノエルは、楽屋でバイオリンの調弦を確認していました。
隣では、サリエルが発声練習をしています。
「そろそろですね」
サリエルが、楽譜を最後に確認しました。
「はい」
ノエルは、深呼吸をひとつ。
音楽祭が、静かに始まりました。
最初は、若い天使たちの合唱です。清らかな声が、雲海に響きました。次に、楽器の演奏。竪琴、フルート、様々な音色が会場を満たしていきます。
やがて、二人の出番が来ました。
「では、次の演目です」
司会役の天使が、静かに告げます。
「サリエルの歌と、ノエルのバイオリンによる共演をお聴きください」
拍手に迎えられて、二人は舞台の中央に立ちました。
会場が、静まり返ります。
ノエルは、バイオリンを構えました。
練習してきたことを、ひとつずつ思い出します。
最初の音を、奏でました。
旋律が、空間に広がっていきます。
優しくて、温かい音色。サリエルの歌声が、それに重なりました。
歌詞は、天界の日常を綴ったものでした。
光と雲。静かな祈り。穏やかな時間。
ノエルは、弓を動かしながら、曲の流れに身を任せました。
練習を重ねた成果が、自然に指先から溢れていきます。サリエルの歌声も、安定していました。
曲の中盤、旋律が少し高くなります。
ここが、一番の聴かせどころです。ノエルは、丁寧に音を紡ぎました。サリエルの声が、それに応えるように伸びていきます。
二人の音が、完璧に調和していました。
そして——曲が、静かに終わりました。
最後の音が、ゆっくりと消えていきます。
数秒の、静寂。
それから——会場中から、大きな拍手が湧き上がりました。
前回よりも、遥かに大きな歓声です。
「素晴らしい!」
「あんな美しい曲、初めて聞いた」
「誰の作曲だ?」
観客たちの声が、あちこちから聞こえてきます。
ノエルとサリエルは、深くお辞儀をしました。
緊張が、ようやく解けていきます。
司会役の天使が、再び前に出ました。
「今の曲は、ガブリエル様の作曲によるものです」
会場が、再び沸きました。
拍手が、一層大きくなります。
ノエルは、客席を見ました。
ガブリエル嬢が、いつものように穏やかに微笑んでいます。少し照れたように、小さく頷きました。
二人は、舞台を降りました。
楽屋に戻ると、周囲の出演者たちから声をかけられます。
「良い演奏だった」
「あの曲、本当に綺麗だね」
サリエルは、嬉しそうに礼を言っていました。
ノエルも、何度もお辞儀を繰り返します。
音楽祭は、その後も続きました。
様々な演奏、様々な歌。会場は、一日中賑わっていました。
祭典が終わり、夕暮れ時。
ノエルは、ガブリエル嬢を見つけました。
彼女は、会場の端で、静かに雲を眺めていました。
「ガブリエル嬢」
声をかけると、彼女はゆっくりと振り返ります。
「あら、ノエル。お疲れさまでした」
「あの曲……本当に、ありがとうございました」
ノエルは、深くお辞儀をしました。
「おかげで、素晴らしい演奏ができました」
ガブリエル嬢は、優しく微笑みました。
「お二人の演奏、とても素敵でした」
「私も、嬉しかったです」
「作曲ができるなんて、知りませんでした」
ノエルは、率直に言いました。
「昔、少し習ったことがあって」
ガブリエル嬢は、少し照れたように目を細めます。
「お二人が練習を頑張っているのを見て、私も頑張ろうと思って」
「皆さん、とても喜んでいました」
ノエルは、会場の様子を思い出しました。
大きな拍手、歓声。あれほど盛り上がったのは、曲の力も大きかったのです。
「皆さんが喜んでくれて、本当に良かった」
ガブリエル嬢の表情が、ふわりと柔らかくなりました。
「久しぶりに曲を書いて、楽しかったです」
空が、優しい色に染まっていきます。
音楽祭の余韻が、まだ雲海に漂っていました。
ノエルは、静かに思いました。
ガブリエル嬢には、まだ知らない一面があるのだと。作曲という才能も、そのひとつでした。
雲の向こうで、小さな鐘の音が響きます。
おやつの時間を告げる、優しい音色でした。
「では、おやつの時間ですね」
ガブリエル嬢が、ゆっくりと歩き始めます。
ノエルは、その後ろ姿を見送りました。
今日は、良い一日でした。
明日からも、また彼女の隣で、天使としての仕事を続けていくのだと。
そう思いながら、ノエルもゆっくりと歩き出しました。
## あとがき
密かに紡がれた旋律が、二人の演奏に花を添えました。作曲という隠れた才能。音楽祭の成功。まどろみの中にも、こんなにも豊かな世界がありました。次は、どんな発見が待っているのでしょう。




