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第55話:神の顔が語る、ある日の奇跡

雲海の端で、風が一度だけ向きを変えました。


その日の午後、ノエルはガブリエル嬢と共に神秘庁を訪れていました。定期的な部署間連絡のための訪問でしたが、執務室に通されると、パヌエルは相変わらず穏やかな笑顔で迎えてくれました。


「こんにちは。お二人とも、お疲れさまです」


その美しい声と優雅な仕草。初めて会った時の驚きを、ノエルはまだ鮮明に覚えています。完璧に美しい女性にしか見えないのに、実は男性だという事実。でも今では、その自然体な在り方が親しみ深く感じられるようになっていました。


「パヌエル、お邪魔します」


ガブリエル嬢が静かに応じました。


「お茶を用意しますね」


パヌエルが立ち上がり、優雅な動作でお茶の準備を始めます。その所作の美しさは、まさに芸術のようでした。


「ノエルさんは、雲菓子と光蜜水、どちらがお好きですか?」


「えっと、どちらも好きですが...」


「では両方用意しましょう」


屈託のない笑顔で、パヌエルはお茶会の準備を進めていきます。


やがて三人でテーブルを囲み、穏やかな時間が流れ始めました。窓の外では雲がゆったりと形を変え、陽光が優しく部屋を照らしています。


「最近、天界図書館の整理が終わったんですよ」


ノエルが何気なく話題を振りました。


「ああ、あの大規模な整理ですね」


パヌエルが興味深そうに応じます。


「大変でしたでしょう」


「はい。でも、古い資料もたくさん見られて面白かったです」


日常的な会話が、ゆったりと続いていきます。雲菓子の甘い香りが部屋に漂い、三人の時間は穏やかに流れました。


ガブリエル嬢が、光蜜水を一口飲んでから、小さく欠伸をしました。


「ふわぁ...」


いつものまどろみが、静かに訪れようとしています。


その時でした。


空気が、変わりました。


静かだった部屋に、突然、言葉にできない圧力が満ちていきます。それは神託の時に感じる温かい光とは、まったく異なる何かでした。


パヌエルの瞳が、かすかに光を宿しました。


「...!」


ガブリエル嬢が、すぐに目を開けました。いつもの眠そうな様子は微塵もなく、凛とした表情で立ち上がります。


「ノエル、頭を下げなさい」


その声には、有無を言わせぬ威厳がありました。ノエルは反射的に深く頭を下げます。何が起きているのか理解できないまま、ただ従いました。


パヌエルの身体が、光に包まれていきました。


柔らかく、しかし圧倒的な光。それは神託の時の温かい光とは違い、畏怖すら感じさせる神聖な輝きでした。部屋全体が、まばゆい金色に染まっていきます。


そして。


「よく参った」


パヌエルの口から発せられた声は、パヌエルのものではありませんでした。


もっと深く、もっと広く、もっと遠い。まるで宇宙全体が語りかけてくるような、計り知れない重みを持つ声。


ノエルは頭を下げたまま、震えていました。これは何なのか。神託とは、まったく違う。


「我が子らよ」


その声が、ノエルの心の奥底まで響きました。


「日々の務め、誠に見事なり」


パヌエルの身体を通して、何かが語りかけています。その声は威厳に満ち、同時に深い慈愛を帯びていました。


「この世界の平和のため、汝らは善く働いている」


光が、さらに強まりました。部屋全体が、神聖な輝きに包まれています。


「引き続き、励むがよい。我は常に見守っている」


その言葉には、すべてを包み込むような温かさがありました。


「では」


光が、ゆっくりと薄れていきます。


圧倒的な存在感が、静かに遠ざかっていきました。部屋の金色の輝きが弱まり、やがて普通の陽光だけが残ります。


パヌエルの身体から、神聖な光が完全に消えました。


「...ふぅ」


パヌエルが、小さく息を吐きました。その表情は、いつもの穏やかなものに戻っています。


「久しぶりでした」


まるで何事もなかったかのように、パヌエルは席に座り直しました。


ノエルは、まだ震えていました。


「あ、あの...今の...」


「神降臨です」


ガブリエル嬢が、静かに説明しました。


「これが、パヌエルの『神の顔』としての役目なのです」


「そうなんですか...」


ノエルは、ようやく理解しました。パヌエルが神の器となり、神が直接姿を現し、言葉を発する。それが「神の顔」。


「びっくりしましたよね」


パヌエルが、申し訳なさそうに笑いました。


「いつ起きるか、予測できないんです。突然降りてこられるので」


その様子は、驚くほど普通でした。でもノエルの心は、まだ激しく波打っています。


「神託とは...全然違いました」


ノエルの言葉に、ガブリエル嬢が頷きました。


「神託は、神意を光として感じ取り、私たちが解釈するもの。間接的で、優しく、温かい」


「でも神降臨は...」


「直接的で、圧倒的。神そのものが、目の前に現れるのです」


パヌエルが、お茶を淹れ直し始めました。


「だから、滅多に起きないんですよ。神託で十分なことがほとんどですから」


その後ろ姿は、さっきまで神を宿していたとは思えないほど、普通で、親しみやすい。


でも確かに、あの美しさは神の器にふさわしいものでした。「神の顔」と呼ばれる意味が、今なら理解できます。


新しいお茶が淹れられ、三人は再び穏やかな時間を過ごしました。


「前回の神降臨から、三十年ぶりだそうです」


パヌエルが説明してくれました。


「次はいつになるか、わかりませんけれど」


「貴重な体験をさせていただきました」


ノエルの言葉に、パヌエルは微笑みました。


「こちらこそ。お二人がいてくださって、心強かったです」


帰り道、ガブリエル嬢が静かに口を開きました。


「神降臨を目撃できるのは、滅多にないことです」


「そうなんですね」


「あなたは、運がいい」


その言葉が、優しく響きました。


雲海を渡る風が、二人の髪を撫でていきます。ノエルは、今日の出来事を心に刻んでいました。


パヌエルの「神の顔」という役目。その意味を、身をもって知った一日。


こうして、ある日の奇跡は、静かに記憶の中へと沈んでいきました。


次の季節、雲の向こうで、また新しい日々が待っています。

## あとがき


突然の神降臨という奇跡を体験した日。普段は親しみやすいパヌエルが神の器となる瞬間の神聖さ、神託とは異なる圧倒的な存在感。そして何事もなかったように日常に戻る不思議さ。珍しい出来事の記憶が、静かに刻まれました。

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