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第54話「許しの名人の困った事情」

雲の上の、とある静かな朝。


天界の回廊に穏やかな足音が響きました。ノエルは手にした一枚の依頼書を見つめながら、軽やかに雲を踏みしめています。「神の裁定部門より相談」と書かれた紙切れには、控えめな筆跡で「お時間ありましたら」と添えられていました。


「裁定部門って……ラグエルさんの?」


ノエルが小さくつぶやいた時、背後から声が聞こえました。


「おはよう、ノエル」


振り返ると、ガブリエル嬢が優雅に浮かぶように歩いています。朝の光を受けた彼女の羽根が、淡い金色に輝いていました。


「ガブリエル嬢、おはようございます。実は、裁定部門から呼び出しがありまして」


依頼書を差し出すと、ガブリエル嬢はそっと目を細めました。


「あら、私にも同じ依頼が……ラグエルに何かあったのかしら」


二人して裁定部門へ向かう道すがら、雲間から差し込む光が柔らかく二人を包みます。天界の建物が見えてくると、意外な光景が広がっていました。


裁定部門の前には、様々な表情を浮かべた天使たちが列をなしています。


「どうしたのでしょう?」


ノエルが首を傾げると、列の先頭にいた天使が振り返りました。


「あ、ノエルさん!ガブリエル様!大変なんです。ラグエル様が……」


彼女の言葉は、部屋の中から聞こえた優しい声に遮られました。


「大丈夫、許しますよ。次からお気をつけて」


そして扉が開き、晴れやかな顔の天使が出てきました。手には「赦免証」と書かれた巻物。


「これで五十八人目……」


列の天使の一人が溜息をつきました。


「何があったのですか?」


ノエルが尋ねると、天使は困ったように首を振ります。


「裁定業務が全く進まないのです。ラグエル様があまりにも寛大すぎて」


部屋に入ると、ラグエルは穏やかな笑顔で書類に向かっていました。机の上には山積みの「神の裁き審査書」。どの書類にも赤い印で「許します♪」のスタンプが押されています。


「あ、ガブリエル様、ノエルさん。来てくださったのですね」


ラグエルの声は、雲のように柔らかでした。


「ラグエル、相談があるとか?」


ガブリエル嬢が尋ねると、部屋の隅から別の天使が立ち上がりました。裁定部門の副官を務めるコハクです。


「実は、裁定業務が滞っているのです」


コハクは神経質そうに眼鏡を上げながら、説明を始めました。


「ラグエル様が全ての案件を『許します』で済ませてしまうため、正当な裁きが行われていません。このままでは天界の秩序が……」


「でも、許すことは美しいことでしょう?」


ラグエルの言葉に、コハクは肩を落とします。


「しかし、裁定部門の本来の役割は……」


「みんな良い子ですから」


ガブリエル嬢はうとうとしながらも、状況を把握したようでした。彼女は小さくあくびをして言いました。


「例えば、どんな案件があるの?」


コハクは一枚の書類を取り出しました。


「例えば、これは『他の天使の翼を故意にくすぐった』という案件ですが、通常なら注意処分のところ……」


「本人も反省していましたし、許しましょう」


ラグエルの穏やかな声。


「これは『天界図書館で大声を出した』という案件で……」


「きっと何か理由があったのでしょう。許します」


コハクはさらに書類を取り出しました。


「これは『天界の雲を勝手に形作って遊んでいた』という……」


「雲も喜んでいたかもしれません。許しましょう」


ノエルは思わず口元に手を当てました。これでは確かに裁定になりません。


「何か良い解決策はないでしょうか」


コハクの切実な眼差しに、ノエルは考え込みました。そんな時、ガブリエル嬢がふわりと立ち上がりました。


「ラグエル、あなたの優しさは天界の宝物よ。だからこそ、その力を正しく使いましょう」


ガブリエル嬢の言葉に、部屋の空気がほんのりと温かくなりました。


「新しい部門を作るのはどうかしら。『神の許し部門』。本当に許すべき案件だけを扱う特別な部署」


ラグエルの瞳が輝きました。


「素晴らしいですね!そうすれば、私は心置きなく許せます」


問題は解決したかに思えました。しかし、その一週間後。


「大変です!」


コハクが息を切らしてガブリエル嬢の執務室に駆け込んできました。ノエルが雲クッションの調整をしていると、コハクの慌てた声が響きます。


「許し部門ができたと聞いて、わざと問題を起こす天使が増えているのです!」


まどろんでいたガブリエル嬢が、片目を開けました。


「例えば?」


「『許してもらえるから』と言って、天界の雲で滑り台を作ったり、ハープの弦をチューニングせずに演奏したり……」


ノエルは困ったように首を傾げました。


「どうしましょう」


ガブリエル嬢はゆっくりと身を起こし、窓の外を見つめました。


「ラグエルに会いに行きましょうか」


三人が許し部門を訪れると、そこにはさらに長い列ができていました。しかし、不思議なことにラグエルの部屋からは誰も出てきません。


「どうしたんでしょう?」


扉を開けると、ラグエルは珍しく真剣な顔で天使と向き合っていました。


「許すことは大切です。しかし、あなたの行動は自分自身を成長させていません。本当の許しとは、相手の成長を信じることなのです」


驚くべきことに、ラグエルは「条件付き許し」を出していたのです。


「反省文を書いてから、また来てください」


部屋を出た天使は、不思議そうな顔をしていましたが、どこか晴れやかでもありました。


「ラグエル、変わったのね」


ガブリエル嬢の言葉に、ラグエルは柔らかく微笑みました。


「ガブリエル様のおかげです。許すことの本当の意味を考えました。ただ許すだけでは、相手の成長を奪ってしまう。それは本当の愛ではないと」


コハクは感動したように目を輝かせています。


「これで裁定業務が……」


「もちろん、基本は許します」


ラグエルの言葉に、コハクは小さくため息をつきました。が、それでも以前よりは良さそうです。


帰り道、ノエルとガブリエル嬢は雲の上の小道を歩いていました。夕暮れの光が二人を柔らかく染めています。


「ガブリエル嬢、素晴らしい解決でした」


「私は何もしていないわ。ラグエル自身が気づいたのよ」


ふと足を止め、ガブリエル嬢は遠くを見つめました。


「許すことと、甘やかすことは違う。優しさにも、強さが必要なの」


その言葉が、なぜかノエルの胸に深く響きました。ガブリエル嬢の横顔が夕陽に照らされ、いつもより凛としています。


「ガブリエル嬢……」


言葉にできない何かが、ノエルの心に広がりました。


「あら、おやつの時間ね」


突然いつもの口調に戻ったガブリエル嬢に、ノエルは小さく笑みを浮かべます。


「準備してきますね」


二人の背後では、ラグエルの部屋から出てきた天使たちが、何かを悟ったような表情で空を見上げていました。許しの中にも、深い愛があることを知った彼らの姿は、どこか晴れやかでした。


雲の上の風が、やさしく二人の羽を撫でていきました。

## あとがき


許しという名の愛には、時に強さも必要です。真の優しさとは何か、ラグエルの迷いと成長が教えてくれました。天界の雲の上では、今日もこうして小さな物語が紡がれていくのです。

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