第53話:秘密の雲上庭園
雲の上の、とある午後。
執務を終えたガブリエル嬢が、不意に立ち上がりました。
「ノエル、少し時間ある?」
「はい、もちろんです」
「良かったわ。案内したい場所がある第53話:秘密の雲上庭園の」
案内したい場所——。
ノエルは、少し驚きます。天界の施設は、もうだいたい知っているつもりでした。でも、ガブリエル嬢が案内したいと言う場所。きっと、特別な何かがあるのでしょう。
「ついてきて」
ガブリエル嬢は、執務室を出ます。
ノエルは、後に続きました。廊下を抜けて、階段を上り、やがて見慣れない通路へ。窓から見える景色も、いつもと少し違います。
「ここは……」
「天界の北端よ。あまり人が来ない場所」
ガブリエル嬢の声は、穏やか。
二人は、さらに進みました。細い通路を抜けると、小さな扉。ガブリエル嬢が、そっと押し開けます。
「さあ、どうぞ」
扉の向こうに、息を呑む光景が広がっていました。
雲でできた、小さな庭園。
色とりどりの雲花が咲き誇り、銀色の噴水が静かに水を噴き上げています。空気は澄んでいて、どこか神聖な雰囲気。天界の喧騒から離れた、静寂の空間でした。
「綺麗……」
ノエルは、思わず呟きます。
「でしょう?」
ガブリエル嬢は、微笑みました。
「私の、秘密の場所よ」
秘密の場所——。
その言葉に、ノエルの胸が高鳴ります。いえ、高鳴ったような気がしました。特別な場所を、自分に見せてくれる。それが、嬉しくて。
「誰にも、教えていないの」
「誰にも、ですか」
「ええ。ここは、私だけの場所」
ガブリエル嬢は、庭園の中央へ歩いていきます。
「疲れた時、ここに来るの。一人で、静かに」
ノエルは、そっと後に続きました。足元の雲が、ふわふわと柔らかい。歩くたびに、微かに沈む感触。心地よい弾力でした。
「座りましょう」
ガブリエル嬢が、雲のベンチに腰を下ろします。
ノエルも、隣に座りました。少し距離を置いて。でも、近すぎず遠すぎず、ちょうど良い距離。
「この場所、いつ見つけたんですか」
「ずっと前よ。新人の頃」
ガブリエル嬢は、空を見上げました。
「仕事で失敗して、落ち込んでいた時。偶然、この扉を見つけたの」
「ガブリエル嬢も、失敗を?」
「ええ、たくさん」
彼女は、くすりと笑います。
「完璧に見える? でも、昔は本当に駄目だったのよ」
その言葉が、意外で。ノエルは、ガブリエル嬢の横顔を見つめます。いつも完璧で、優雅で、何でもこなす大天使。そんな人にも、苦労した時代があったのだと。
「ここで、何度も泣いたわ」
「泣いて……」
「ええ。一人で泣いて、また頑張ろうって」
ガブリエル嬢の声は、穏やか。でも、その言葉には確かな重みがありました。
「だから、この場所は特別なの」
噴水の音が、静かに響きます。
ノエルは、何も言えませんでした。ガブリエル嬢の過去を、初めて知った気がして。その苦労を、少しだけ理解した気がして。
「ノエルに、見せたくなったの」
「僕に、ですか」
「ええ」
ガブリエル嬢は、ノエルの方を向きました。
「あなたなら、きっと大切にしてくれると思って」
その言葉に、ノエルの胸が温かくなります。信頼されている。秘密を共有してもらえた。それが、どれほど特別なことか。
「ありがとうございます」
「いいえ」
ガブリエル嬢は、また空を見上げます。
「一人だけの秘密も良いけれど、誰かと共有する秘密も悪くないわね」
風が、優しく吹き抜けました。
雲花の花びらが、ひらひらと舞います。銀色の噴水は、相変わらず静かに水を噴き上げていました。
「ここには、いつ来るんですか」
「疲れた時。それから……」
ガブリエル嬢は、少し考えて続けます。
「嬉しいことがあった時も」
「嬉しい時も、ですか」
「ええ。一人で喜びを噛みしめるの」
その言葉に、ノエルは微笑みました。悲しい時も、嬉しい時も。この場所が、ガブリエル嬢にとって大切な居場所なのだと分かります。
「雲花も、自分で植えたの」
「自分で?」
「ええ。少しずつ、時間をかけて」
ガブリエル嬢は、近くの雲花を優しく撫でました。
「この青い花は、三年前。この赤い花は、去年」
一つ一つに、思い出があるのでしょう。その丁寧な仕草から、彼女の愛情が伝わってきました。
「綺麗ですね」
「でしょう? 手入れは大変だけれど」
ガブリエル嬢は、満足そうに微笑みます。
「でも、それも楽しいの」
ノエルは、庭園を改めて見回しました。色とりどりの雲花、銀色の噴水、ふわふわの雲。すべてが、ガブリエル嬢の手で作られたもの。
(……尊い)
心の中で、呟きます。
こんな場所を持っていること。そして、それを自分に見せてくれたこと。すべてが、特別で、尊い。
「ノエルも、疲れた時は来ていいわよ」
「え……」
「ここは、もう二人の秘密の場所」
ガブリエル嬢の言葉に、ノエルは目を瞬かせます。
二人の秘密——。
その響きが、胸に染みました。特別な場所を、共有する。それは、特別な関係を意味するのかもしれません。
「ありがとうございます」
ノエルは、深く頭を下げました。
「大切にします」
「ええ、お願いね」
二人で、しばらく庭園を眺めていました。
噴水の音、風の音、雲花の揺れる音。静かな音だけが、空間を満たしています。言葉は少なくても、心地よい時間でした。
「そろそろ、戻りましょうか」
ガブリエル嬢が、立ち上がります。
「はい」
ノエルも、立ち上がりました。
「また、来ましょうね」
「はい、ぜひ」
二人で、庭園を後にします。小さな扉を抜けて、細い通路を戻る。来た道を、ゆっくりと。
「ノエル」
「はい?」
「内緒よ」
ガブリエル嬢は、人差し指を唇に当てました。
「もちろんです」
ノエルは、笑顔で答えます。
二人の秘密。それを守ることが、信頼に応えることだと分かっていました。
執務室に戻ると、いつもの日常。
書類を整理して、神託を確認して。でも、ノエルの心には、さっきの庭園の景色が残っていました。
特別な場所を、共有した。
その事実が、胸の中で温かく輝いています。ガブリエル嬢との距離が、また少し近づいた気がしました。信頼関係が、深まった気がしました。
窓の外で、雲が流れていきます。
ノエルは、時々ガブリエル嬢の方を見ました。彼女は、いつもの穏やかな表情で仕事をしています。でも、今は何だか特別に見えて。
秘密を共有する相手——。
その立場が、嬉しくて。ノエルは、また書類に目を落としました。
「ノエル」
「はい」
「今日のこと、忘れないでね」
ガブリエル嬢の言葉に、ノエルは頷きます。
「忘れません」
「良かったわ」
彼女は、優しく微笑みました。その笑顔を見て、ノエルの胸がまた温かくなります。
(……尊い)
もう一度、心の中で呟きました。
こうして、特別な午後が過ぎていきました。秘密の場所が、二人だけの場所になった日。それは、信頼関係が新たな段階に進んだ、忘れられない時間でした。
**あとがき**
秘密の庭園で、二人だけの時間が流れました。共有される秘密は、信頼の証。特別な場所が、特別な関係を育んでいきます。静かな午後に、新しい絆が生まれました。




