第50話:旋律が紡ぐ午後
雲の上の、とある穏やかな午後。
天界の音楽堂に、静かな緊張が満ちていました。小さな舞台、その袖でノエルはバイオリンケースを抱えています。
「大丈夫?」
ラファエル師匠が、優しく声をかけてきました。
「はい、なんとか……」
本当は、緊張で手が震えていました。人前での演奏は初めて。しかも、天界のみんなの前で。
「君なら大丈夫。自分を信じて」
師匠の言葉に、ノエルは深呼吸をひとつ。
客席には、すでに多くの天使たちが座っていました。ガブリエル嬢、ミカエル、ウリエル、サリエル、ラグエル、パヌエル。見知った顔ばかり。でも、それがかえって緊張を増します。
「では、次の演奏者」
司会の声が響きました。
「ノエル。曲は、天界の子守唄です」
拍手が起こります。
ノエルは、ゆっくりと舞台に上がりました。足が少し震えています。でも、立ち止まるわけにはいきません。約束したのだから。
舞台の中央に立ちます。
客席を見渡すと、みんなが温かい眼差しを向けていました。ガブリエル嬢は、いつもの穏やかな表情。その姿を見て、少しだけ落ち着きます。
バイオリンを構えました。
弓を弦に当てる。深呼吸。そして——。
最初の音が、ホールに響きました。
静寂を破る、優しい旋律。天界の子守唄は、ノエルが一番好きな曲。母が聴かせてくれた、懐かしい調べでした。
指が、自然に動きます。
緊張は、いつの間にか消えていました。音楽に集中すると、周りのことが気にならなくなる。ただ、旋律を紡ぐことだけに意識が向きます。
弓が弦を滑り、音符が次々と生まれる。
穏やかで、優しくて、温かい音色。子守唄らしい、安らぎに満ちた旋律でした。客席から、小さなため息が漏れます。
ノエルは目を閉じました。
音だけを頼りに、心のままに演奏する。故郷の空、雲の上の景色、ガブリエル嬢の笑顔。思い浮かべるものすべてが、音楽となって溢れ出しました。
曲が、クライマックスへ。
旋律は高く、そして静かに降りていきます。最後の音が消えるとき、ノエルはゆっくりと弓を下ろしました。
静寂。
そして——拍手。
大きな拍手が、ホール全体を包みました。ノエルは目を開けて、客席を見ます。みんなが立ち上がって、拍手してくれていました。
「素晴らしい!」
ミカエルの声が響きます。
「ブラボー!」
パヌエルが、嬉しそうに叫びました。
ノエルは、深く頭を下げます。胸が、温かな感動で満たされました。認めてもらえた。受け入れてもらえた。その実感が、じわじわと広がります。
舞台を降りると、みんなが駆け寄ってきました。
「ノエル、すごかったわ」
サリエルが、目を輝かせています。
「こんなに上手だなんて、知らなかった」
「ありがとうございます」
「また聴かせてね」
ウリエルも、満足そうに微笑みました。
「次のお茶会で、演奏してくれないかしら」
「お茶会で、ですか」
「ええ。きっと、素敵な時間になるわ」
ノエルは、嬉しくなって頷きました。
「喜んで」
「よかった!」
パヌエルが、ぴょんと跳ねます。
「私、音楽会の続きも企画するね」
「また次も?」
「うん! ノエルの演奏、もっとみんなに聴いてもらいたいもん」
その言葉に、ノエルは照れくさくなりました。でも、悪い気はしません。むしろ、嬉しくてたまらない。
「ノエル」
ラファエル師匠が、肩を叩きました。
「完璧だったよ」
「師匠……」
「自信を持っていい。君には、本当に才能がある」
師匠の言葉が、心に染みます。
「ありがとうございます」
そして、最後に。
ガブリエル嬢が、静かに近づいてきました。いつもの穏やかな表情。でも、その瞳には特別な輝きがあります。
「素敵だったわ、ノエル」
「ガブリエル嬢……」
「あなたの音楽を聴いていたら、心が軽くなった」
その言葉が、何より嬉しい。
ノエルは、胸がいっぱいになりました。ガブリエル嬢に喜んでもらえた。それが、一番の報酬です。
「また、聴かせてね」
「はい、いつでも」
ガブリエル嬢は、優しく微笑みました。
(……尊い)
ノエルは、心の中で呟きます。この瞬間、この幸せ。すべてが、尊い思い出になりました。
音楽会は、まだ続いていました。
他の演奏者たちが、次々と舞台に上がります。歌、楽器、様々な形の音楽。天界は、こんなにも芸術に溢れているのだと、ノエルは改めて感じました。
「ね、ノエル」
サリエルが、隣に座ってきます。
「今度、一緒に練習しない?」
「練習、ですか」
「うん。私、歌を習っているの」
「サリエルが、歌を?」
「そう。でも、一人だと練習しづらくて」
サリエルは、少し照れたように言いました。
「ノエルのバイオリンと一緒に、デュオで演奏できたら嬉しいな」
「もちろんです」
ノエルは、即座に答えました。
「僕で良ければ、喜んで」
「ありがとう!」
サリエルは、嬉しそうに笑います。その笑顔を見て、ノエルも温かな気持ちになりました。
音楽会が終わるころ、外はすっかり夕暮れ。
ホールを出ると、オレンジ色の空が広がっていました。雲海も、その色を映して輝いています。
「綺麗ね」
ガブリエル嬢が、隣に立ちました。
「はい」
二人で、夕焼けを眺めます。
「ねえ、ノエル」
「はい?」
「あなた、近侍の仕事に馴染んだわね」
その言葉に、ノエルは少し考えます。
馴染んだ——。
確かに、そうかもしれません。最初は緊張と戸惑いばかりだった近侍としての日々。今では、すっかり日常になりました。
仕事も、仲間も、この美しい景色も。
すべてが、大切な日常です。
「はい、おかげさまで」
ノエルは、心から答えました。
「ガブリエル嬢のおかげです」
「私は、何もしていないわ」
「いえ、たくさん教えていただきました」
ガブリエル嬢は、優しく首を横に振ります。
「あなたが頑張ったのよ」
その言葉が、嬉しくて。
ノエルは、また胸がいっぱいになりました。認めてもらえた。受け入れてもらえた。そして、天界の一員として、ここにいる。
「これからも、よろしくお願いします」
「ええ、こちらこそ」
ガブリエル嬢は、微笑みました。夕焼けの光が、二人を包み込みます。
バイオリンケースを抱えたまま、ノエルは空を見上げました。
音楽会での演奏。みんなからの拍手。ガブリエル嬢の言葉。すべてが、心の中で輝いています。
この仕事に就けて、良かった。
心から、そう思いました。この場所で、この仲間たちと、そしてガブリエル嬢と。これからも、ずっと。
星が、ひとつ輝き始めていました。
こうして、特別な午後が過ぎていきました。音楽が紡いだ、温かな時間。それは、ノエルにとって忘れられない思い出となりました。
次は、どんな旋律が生まれるのでしょう。
天界の風が、優しく吹き抜けていきました。
**あとがき**
舞台の上で紡がれた旋律が、みんなの心に届きました。音楽は言葉を超えて、想いを伝えます。仲間たちに受け入れられた実感と、深まる絆。次は、どんな音色が響くのでしょう。




