第49話:天使の微笑みの神聖さ
雲の上の、とある穏やかな朝。
ノエルは、いつもの執務室でガブリエル嬢の雲クッションを整えていました。硬度は完璧。温かな光も、ちょうどよい角度で差し込んでいます。
「今日のおやつ、楽しみね」
ガブリエル嬢が、書類を眺めながら小さく呟きました。
「新作の雲菓子だそうよ」
「新作、ですか」
ノエルの手が止まります。
雲菓子は、天界の雲職人が心を込めて作る特別なお菓子。ふわふわで優しい甘さが特徴で、ガブリエル嬢の大好物でした。新作が出るのは、年に数回のこと。
「ウリエルが選んでくれたの」
「それは……期待できますね」
ウリエルの目利きは、天界随一。お茶会の達人である彼女が選ぶ雲菓子なら、間違いないはずです。ノエルは雲クッションの最終調整を終えて、執務机の脇に立ちました。
時刻は、もうすぐお昼。
おやつの時間まで、あと少しでした。
書類整理の合間、ガブリエル嬢は何度か窓の外を眺めます。いつもより、ほんの少しだけそわそわしているように見えました。まつげが、やわらかく揺れます。
まどろみベルが、小さく鳴りました。
「……三分だけ」
ガブリエル嬢は雲クッションに身を預けます。いつもの光景。でも今日は、すぐに目を開けました。
「やっぱり、起きていようかしら」
珍しい。
ノエルは少し驚きました。まどろみベルを使わないなんて、滅多にないことです。それだけ、新作のおやつが楽しみなのでしょう。
時計の針が、おやつの時刻を指しました。
扉をノックする音。ウリエルが、銀の盆を手に入ってきます。
「お待たせしました」
盆の上には、真っ白な雲菓子が五つ。ふわふわとした見た目で、微かに光を帯びていました。香りは優しく、甘さの中に花の香りが混じっています。
「これは……」
ガブリエル嬢が、目を輝かせました。
「雲すみれの雲菓子。今季限定の特別品です」
ウリエルが、誇らしげに説明します。
「雲すみれの蜜を練り込んで、職人が三日かけて仕上げたそうです」
「三日も……」
ガブリエル嬢の声が、感嘆に満ちていました。
ウリエルは椅子に腰を下ろします。今日は、一緒にお茶会のようでした。お茶は、いつもの光蜜水。温かい金色の液体が、透明なカップに注がれます。
「実はね、この雲すみれ、今年は特に出来が良かったそうなの」
ウリエルが、カップを手に取りながら続けます。
「職人さんが言うには、雲の流れが穏やかで、蜜の熟成が完璧だったとか」
「まあ」
ガブリエル嬢の表情が、ほころびます。
「それは期待できるわね」
「ええ。それに、この雲菓子、通常より柔らかく仕上げてあるそうよ」
「柔らかく?」
「ガブリエル様のお好みを伝えておいたの。ふわふわ食感がお好きだって」
「ウリエル……」
ガブリエル嬢は、嬉しそうに微笑みました。
「ありがとう」
「いえ、お茶会の幹事として当然のことですわ」
ウリエルは控えめに笑って、自分のカップに口をつけます。ノエルは二人のやりとりを、微笑ましく見守っていました。
「ノエルも、どうぞ」
ウリエルが、盆の雲菓子を勧めます。
「あ、いえ、僕は大丈夫です」
「遠慮しないで」
ガブリエル嬢も、優しく勧めました。
「五つあるもの。みんなで食べましょう」
「でも……」
「ノエルにも、味わってほしいわ」
その言葉に、ノエルは頷きました。断り続けるのも、かえって失礼かもしれません。
「では、ひとついただきます」
盆から、雲菓子をひとつ手に取ります。本当にふわふわで、触れただけで柔らかさが伝わってきました。
「いただきます」
三人で、同時に一口。
「……おいしい」
ガブリエル嬢の声が、静かに響きました。
その瞬間、彼女の表情が変わります。いつもの穏やかさに、心からの喜びが加わりました。目元が緩み、頬がほんのり上がる。唇の端が、優しく弧を描きます。
笑顔——。
それも、満面の笑顔でした。天使の輝きが、その表情から放たれています。陽光に照らされて、ガブリエル嬢の微笑みはさらに美しく見えました。
「……尊い」
ノエルは、思わず呟いてしまいます。
「ふふ、本当に気に入ってもらえたみたいね」
ウリエルが、満足そうに微笑みました。
「ええ、とても」
ガブリエル嬢は、また一口。その表情は、さらに柔らかくなります。
「この食感……まるで雲の上を歩いているみたい」
「でしょう? 職人さんの技術が素晴らしいの」
ウリエルが、お茶を一口飲んで続けます。
「この雲菓子、実は製法が特殊なのよ。普通の雲菓子は二日で仕上げるけれど、これは三日かけて、何度も空気を含ませながら練り上げるの」
「三日も……」
「そう。だから、この独特のふわふわ感が生まれるのよ」
ガブリエル嬢は、感心したように頷きました。
「職人さんの想いが、伝わってくるわね」
「ええ。お菓子は、作る人の心が現れるものですから」
二人の会話を聞きながら、ノエルも雲菓子を味わいます。確かに、これまで食べたどの雲菓子とも違う、特別な柔らかさでした。口の中で溶けるように消えていく感触。
「ノエル、どう?」
ガブリエル嬢が、尋ねてきました。
「はい、とても美味しいです」
「良かった」
またあの笑顔。ノエルは、その美しさに目を奪われます。
「……尊い」
二度目の呟き。でも、誰も気づいていないようでした。
「ねえ、ウリエル」
ガブリエル嬢が、カップを置いて言います。
「次回のお茶会も、この雲菓子にできないかしら」
「もちろん。でも、季節限定だから、手に入るかどうか……」
「そう……」
少し残念そうな表情。
「でも、職人さんに相談してみますわ」
ウリエルが、すぐにフォローしました。
「ガブリエル様のためなら、特別に作ってくださるかもしれません」
「本当?」
「ええ。あの職人さん、ガブリエル様のファンですもの」
「まあ」
ガブリエル嬢は、少し照れたように笑いました。その表情も、また美しく。ノエルは、ただ見守ることしかできません。
「それから、この雲菓子に合うお茶も研究してみましょう」
ウリエルが、熱心に続けます。
「光蜜水も良いけれど、もしかしたら雲花茶の方が香りが引き立つかもしれないわ」
「雲花茶……」
「ええ。少し渋みがあるから、甘さが際立つの」
「次は、それも試してみたいわね」
二人のお菓子談義は、まだ続きます。ノエルは、その様子を静かに見守っていました。ガブリエル嬢の嬉しそうな顔、ウリエルの真剣な眼差し。
「ノエルも、意見ある?」
突然、話を振られました。
「え、僕ですか」
「ええ。いつもガブリエル様のお世話をしているんですもの。好みを一番理解しているはずよ」
「そうね」
ガブリエル嬢も、期待の眼差しを向けてきます。
「あ、その……」
ノエルは少し考えて、口を開きました。
「ガブリエル嬢は、温かいものがお好きなので、お茶も温かい方が良いかと」
「なるほど」
ウリエルが、納得したように頷きます。
「雲花茶も、温かくして出しましょう」
「それと、甘さは控えめが好みだと思います」
「まあ、よく見てるのね」
ガブリエル嬢が、感心したように言いました。
「その通りよ。あまり甘すぎると、すぐ眠くなってしまうの」
「なるほど……」
ウリエルは、何かをメモしているようでした。
「次回のお茶会に活かさせていただきますわ」
三つ目の雲菓子を食べ終えたとき、ガブリエル嬢はゆっくりと光蜜水を飲みました。満足そうな吐息がひとつ。そして、またあの笑顔。
「ごちそうさま」
「お粗末さまでした」
ウリエルが、優雅に一礼します。
「また次回も、楽しみにしていてくださいね」
「ええ、もちろん」
ガブリエル嬢の微笑みは、まだ消えていませんでした。その表情を見て、ノエルはまた心の中で呟きます。
「……尊い」
三度目。
でも、声には出しません。この特別な瞬間を、静かに胸に刻むだけ。ガブリエル嬢の笑顔は、何度見ても美しく、何度見ても心を打ちました。
ウリエルが立ち上がります。
「それでは、午後の業務に戻りますわ」
「ありがとう、ウリエル」
「いえ、またお茶会でお会いしましょう」
扉が静かに閉まります。
執務室に、再び静寂が訪れました。ガブリエル嬢は、まだ微笑んでいます。その余韻が、部屋に満ちていました。
「さて、午後の仕事も頑張りましょう」
ガブリエル嬢が立ち上がります。
おやつで力をもらったのか、いつもより少しだけ足取りが軽く見えました。窓辺に向かって、書類を手に取ります。
ノエルは、その後ろ姿を見つめていました。
さっきの笑顔が、まだ目に焼きついています。あんなに嬉しそうなガブリエル嬢を見られて、良かった。心から、そう思いました。
午後の仕事が始まります。
いつもの静かな時間。書類を整理し、神託を確認し、雲クッションの状態を見る。日常の繰り返し。でも、今日は何だか特別な気がしました。
ガブリエル嬢の笑顔のせいかもしれません。
窓の外で、雲が静かに流れていました。午後の光が、執務室を優しく包みます。ノエルは書類を確認しながら、時々ガブリエル嬢の方を見ました。
また、あの笑顔が見られる日を、楽しみにしながら。
雲の上の午後は、静かに過ぎていきました。雲菓子がもたらした、小さな幸せの余韻を胸に。それは、いつもより少しだけ特別な、天界の一日でした。
**あとがき**
雲菓子と笑顔と、女子トークの午後。美味しいものは、人を幸せにします。お茶会の奥深さと、職人の想いが紡ぐ優しい時間。次はどんなお菓子が、彼女を笑顔にするでしょう。




