第4話:天空都市の秘密
朝靄が雲海から立ち昇る頃、ノエルは生まれて初めて天界の全容を見学する機会を得ました。
ガブリエル嬢に同行しての、各部署への定期巡回です。
「では、参りましょうか」
微睡みから目覚めたばかりのガブリエル嬢が、やわらかく微笑みました。彼女の声には、いつものようにゆったりとした調子が流れています。
ノエルは胸の高鳴りを抑えながら、彼女の後に続きました。
これまで、天界といっても執務棟の一角しか知らなかったのです。この雲上に広がる神秘的な世界の全貌を、今日初めて目にすることができるのです。
廊下を抜け、大きな扉を開くと——
ノエルの息が止まりました。
眼下に広がる光景は、まさに息を呑む美しさでした。
雲海の上に浮かぶ、七つの区画からなる壮麗な都市。それぞれの区画は虹色の橋で結ばれ、空中庭園のように優雅に配置されています。建物はすべて純白の大理石で造られ、陽光を受けて神々しく輝いていました。
「美しいでしょう?」
ガブリエル嬢の声が、ノエルの感嘆を察したように響きました。
「はい……言葉になりません」
ノエルは正直に答えました。想像を遥かに超える壮大さと美しさに、新人天使としての自分の無知を恥じる気持ちさえ湧いてきます。
「それぞれの区画には、7大天使が統治する部署があります。まずは中央の神託庁から始めましょう」
二人は雲でできた エレベーターに乗り込みました。ふわりとした浮遊感と共に、街の中心部へと降りていきます。窓から見える景色は、まるで絵画のような美しさです。
中央の神託庁は、天界で最も重要な施設でした。
ここで受信された神からのお告げが、各部署に伝達され、人間界への奇跡として実現されるのです。建物の中央には巨大な光のクリスタルがあり、そこから温かい光が絶えず放射されています。
「神託の受信と解釈、そして適切な部署への振り分けがここで行われます」
ガブリエル嬢の説明を聞きながら、ノエルは神聖な空気に包まれた職場を見学しました。天使たちは静かに、しかし的確に業務を進めています。
「僕も、いつかここで働けるのでしょうか」
「もちろんです。まずは基礎をしっかりと学んでからですが」
ガブリエル嬢の答えには、確信に満ちた優しさがありました。
次に向かったのは、東の区画にある戦務庁でした。
ミカエルが統括するこの部署は、天界の守りと秩序維持を担っています。建物の外観は要塞のように堅固で、内部では天使たちが規律正しく訓練に励んでいました。
「戦士長ミカエル様は、天界で最も頼りになる方です」
ガブリエル嬢の言葉に、ノエルは頷きました。確かに、先日見せていただいた威厳ある姿は印象的でした。
南の区画は治癒庁。
ラファエルの管轄するこの場所では、傷ついた天使たちの治療や、人間界への癒しの奇跡が準備されています。建物全体が柔らかな光に包まれ、訪れる者の心を自然と安らがせる雰囲気を醸し出していました。
「ラファエル様は、ノエルの師匠でもありますね」
「はい。とても優しく指導してくださいます」
師匠への感謝を込めて、ノエルは答えました。
西の区画にある審判庁は、ウリエルの領域です。
正義と公正を司るこの部署は、重厚で厳かな雰囲気に満ちています。しかし、建物の一角に小さなカフェテラスがあることに、ノエルは気づきました。
「あそこは……?」
「ウリエル様の、お気に入りの場所ですね」
ガブリエル嬢の微笑みには、何か秘密を知っているような響きがありました。
北東の区画は統務庁。
サリエルが管理するこの部署では、天界の規則や手続きに関する業務が行われています。整然と整理された書類の山と、きちんと配置された家具類が、責任者の几帳面な性格を物語っていました。
「とても整理整頓されていますね」
「サリエル様は、規則を大切にされる方です。ただし……」
ガブリエル嬢の言葉が途切れたとき、廊下の向こうから困惑した声が聞こえてきました。
北西の区画には和解庁があります。
ラグエルの治める平和と調停の部署は、温かい木の家具で飾られ、まるで家庭的な応接間のような親しみやすさを感じさせました。争いごとの調停や、許しの精神を広める活動がここから発信されているのです。
「争いを好まない、穏やかな部署ですね」
「ラグエル様のお人柄が現れています」
ガブリエル嬢の説明に、ノエルは深く頷きました。
最後に訪れたのは、北の区画にある神秘庁です。
パヌエルが統括するこの部署は、神の意志の伝達や、天界と人間界を結ぶ神秘的な業務を担っています。建物は美しい装飾に彩られ、どこか芸術的な雰囲気を漂わせていました。
各部署を巡り終えた頃、ノエルの心は深い感動で満たされていました。
それぞれの部署が独自の特色を持ちながら、全体として美しく調和している。そして、その中で働く天使たちの真摯な姿勢。
「どの部署も、それぞれに大切な役割を持っているのですね」
「そうです。一つ一つは小さな業務でも、全てが合わさることで、天界の大きな使命が果たされるのです」
ガブリエル嬢の言葉は、ノエルの胸に深く響きました。
自分も、この壮大で神聖な組織の一員として働いているのだという実感が、改めて湧き上がってきます。
夕方の光が雲海を染める頃、二人は中央庁舎の展望テラスに立っていました。
眼下には、先ほど巡った七つの区画が美しく配置されています。それぞれの建物から温かい光が漏れ、まるで地上の星座のような美しさでした。
「ノエル」
ガブリエル嬢が、静かに名前を呼びました。
「はい」
「今日見学した中で、どの部署の仕事をもっと知りたいと思いましたか?」
ノエルは少し考えてから答えました。
「どの部署も、それぞれに奥深い専門性をお持ちでした。でも……」
「でも?」
「僕は近侍として、ガブリエル嬢をお支えするのが役目です。ですから、どの部署であっても、あなたのお役に立てるよう理解を深めたいと思います」
ガブリエル嬢は、優しく微笑みました。
「良い心構えです。近侍には各部署との連携も大切ですから、色々な業務を学んでいきましょう」
風が雲海から吹き上げ、二人の髪をそっと揺らしました。
ノエルは今日一日を振り返りながら、深い充実感を味わっています。天界という組織の奥深さ、そこで働く人々の献身的な姿勢、そして何より、自分もその一員であることの誇らしさ。
「ガブリエル嬢」
「はい?」
「今日は、貴重な体験をありがとうございました。天界のことを、以前よりもずっと深く理解できたような気がします」
「それは良かった。理解が深まれば、きっと仕事にも良い影響があるでしょう」
星が輝き始めた夜空の下、二人は本庁舎への帰路につきました。
今日見た美しい景色、各部署の神聖な雰囲気、そして働く天使たちの真摯な姿。それらすべてが、ノエルの心に大切な記憶として刻まれています。
「僕も、いつかは……」
小さく呟いた言葉は、夜風に溶けていきました。
いつかは、この美しい天界のために、本当に役立つ天使になりたい。そして、ガブリエル嬢のような立派な方に恥じないよう、精進を重ねていきたい。
そんな決意を胸に、ノエルは雲上の夜を歩いていました。明日からまた、新しい学びの日々が始まります。今日得た知識と感動を糧に、一歩ずつ成長していこうという気持ちで、心が満たされていました。
雲海に月光が踊る夜、天界の七つの灯りは静かに輝き続けています。
それぞれの部署で、それぞれの使命を果たす天使たち。その中に、いつか自分の居場所を見つけられる日が来ることを、ノエルは心から願っていました。
## あとがき
天界の壮麗な全貌を初めて目にしたノエルの感動と発見を、七つの部署巡りと共に描きました。組織の調和と神聖な使命感に触れ、天使としての自覚を深めていく過程を、雲海の美しい風景と重ねながらお届けしました。次回は、天界に古くから伝わる特別な道具が、ノエルの日常にどのような彩りを加えるのでしょうか。