第33話:「ゆるやかな時の流れ」
おやつの時間は、雲海に夕日が差し込む頃にやってきました。
ノエルがそっと声をかけると、ガブリエル嬢はいつものようにゆっくりと目を開けます。
「あら...もう...そんな時間...」
伸びをしながら、彼女は雲クッションから起き上がりました。
「今日は何を...」
「雲菓子と、お茶をご用意しました」
ノエルが準備したテーブルには、ふわふわの雲菓子と温かいお茶が並んでいます。
「まあ...ありがとう」
ガブリエル嬢がテーブルに向かう歩みは、とてもゆっくりでした。まだ完全には目が覚めていないようです。
「(急がなくていいんだった)」
ノエルは以前の自分を思い出していました。最初の頃は、おやつの時間でも効率よく進めようとしていた気がします。
でも、今はそんな必要がないことがわかっています。
「どうぞ、ごゆっくり」
ノエルが椅子を引くと、ガブリエル嬢は微笑みながら腰を下ろしました。
「一緒に...いかがですか?」
「ありがとうございます」
ノエルも向かいの席に座りました。
ガブリエル嬢は雲菓子を手に取ると、まずじっくりと眺めました。
「綺麗な形...ですね」
その一言を聞いて、ノエルも自分の雲菓子を改めて見つめました。確かに、よく見ると繊細な模様が施されています。
「本当ですね。普段は気づきませんでした」
「急いでいると...見えないものが...たくさんありますから」
ガブリエル嬢の言葉に、ノエルは深く頷きました。
一口目を口に含んだ彼女は、ゆっくりと味わっています。その様子を見ていると、ノエルも自然とゆっくり食べるようになりました。
「美味しい...」
小さく呟いた声が、静かなおやつ時間に響きます。
「そうですね」
ノエルも同じように答えました。確かに、ゆっくり味わうと普段より美味しく感じられます。
お茶を飲む時も、ガブリエル嬢は慌てません。カップを両手で包み込むように持って、香りを楽しんでから口をつけます。
「(この時間...悪くないな)」
ノエルは心の中で呟きました。
最初は、もっとテキパキとおやつを済ませて、次の作業に移るべきだと思っていました。でも、こうしてゆっくり過ごす時間には、別の価値があるようです。
「ノエル...いつも急いで...いませんか?」
ガブリエル嬢の質問に、ノエルは少し驚きました。
「急いで...ですか?」
「ええ...せかせかと...」
言われてみれば、確かにそうかもしれません。効率よく、完璧に、早く。そんなことばかり考えていた気がします。
「そうかもしれません」
「たまには...ゆっくりも...良いものですよ」
ガブリエル嬢の声には、優しい諭すような響きがありました。
「でも、仕事が...」
「仕事も...大切ですが...」
彼女は雲菓子をもう一口食べてから続けました。
「心の余裕も...大切です」
その言葉を聞いて、ノエルは今の自分を振り返りました。確かに、最近は心に余裕がなかったかもしれません。
「心の余裕...」
「ええ...急いでばかりでは...見えないものが...あります」
窓の外を見ると、夕日が雲海を美しく染めていました。
「(こんなに綺麗だったのか)」
普段なら気づかずに通り過ぎてしまう光景です。
「ガブリエル様は...いつもこうなのですね」
「こう...とは?」
「ゆっくりと...味わうように」
ノエルの言葉に、ガブリエル嬢は少し照れたような表情を見せました。
「単に...のんびりなだけですよ」
「いえ、そうじゃないと思います」
ノエルは首を振りました。
「きっと、大切なことを知っているから」
ガブリエル嬢の目が、わずかに驚いたように見開かれました。
「大切なこと...?」
「急がない時間の価値、というか...」
うまく言葉にできませんが、確かに何かを感じていました。
「今みたいな時間は...とても心地良いです」
その素直な感想に、ガブリエル嬢は優しく微笑みました。
「そう言って...もらえると...嬉しいです」
二人は再び、静かにおやつを続けました。
今度は、お互いのペースを意識することなく、自然とゆっくりとした時間を共有していました。
雲菓子を食べ終わって、お茶だけになっても、会話は続きました。
「明日は...どんな一日に...なるでしょうね」
「そうですね。きっと穏やかな一日になると思います」
ノエルの答えに、ガブリエル嬢は満足そうに頷きました。
「穏やかが...一番ですね」
カップを置いた彼女は、ゆっくりと伸びをしました。
「ごちそうさま...でした」
「お疲れさまでした」
おやつの時間が終わっても、ノエルは急いで片付けませんでした。ガブリエル嬢がゆっくりと席を立つのを待ってから、テーブルを整え始めました。
「ありがとう...ノエル」
「いえ、こちらこそ」
ガブリエル嬢が雲クッションに向かう後ろ姿を見送りながら、ノエルは今日の発見を噛みしめていました。
「(急がない時間も...大切なんだな)」
効率や速度だけが全てではない。ゆっくりとした時間の中でこそ、見えてくるものがある。
ガブリエル嬢の生き方から、そんなことを教わった気がします。
「もう少し...休んでから...夕方の業務ですね」
雲クッションに沈み込みながら、ガブリエル嬢が呟きました。
「はい、ゆっくりとご休憩ください」
ノエルの返事には、以前とは違う理解が込められていました。
窓の外では、夕日がさらに美しく雲海を照らしています。こんな光景を、今まで見逃していたなんて。
「(もったいないことをしていた)」
急ぎすぎていた日々を、少し反省しました。
ガブリエル嬢の寝息が聞こえ始めると、執務室はいつもの安らぎに包まれました。
でも今日は、その安らぎの意味が少し違って感じられます。
急がない時間の価値。ゆっくりとした生き方の美しさ。
「尊い...」
いつもの口癖が、今日は新しい発見への感謝を込めて響きました。
時計を見ると、おやつの時間は普段の倍近くかかっていました。でも、それが無駄だったとは全く思えません。
むしろ、とても有意義な時間だった気がします。
片付けを済ませて、ノエルは自分の作業に戻りました。
でも、以前ほど急いではいません。一つ一つを、丁寧に、ゆっくりと。
ガブリエル嬢のペースに合わせることを覚えたのかもしれません。
そして、それがとても心地良いことも。
夕方の光が、執務室を優しく包んでいました。
## あとがき
ガブリエル嬢とのゆったりとしたおやつ時間を通じて、ノエルは急がない時間の価値を発見します。効率重視だった彼が、彼女のペースに合わせることの心地よさを感じ取る、穏やかで温かな午後のひとときでした。




