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第3話:羽根に宿る温もり

雲海の午後は、いつものように穏やかでした。

天界の執務室で、ガブリエル嬢は机上の書類を眺めながら、やわらかくうとうとしていました。陽光が雲の隙間から差し込み、彼女の白金の髪にかすかな光輪を描いています。


ノエルは少し離れた場所から、そっと様子を窺いました。

「……また、お眠りになられている」

小さな溜息と共に漏れた独り言は、困惑というより微笑ましさを含んでいました。


近侍として彼女の傍に仕えるようになって、まだ数日。ノエルの心は日々、新しい発見で満たされていました。大天使ガブリエル嬢は確かによくお眠りになりますが、目を覚ましている時の仕事の的確さは、まさに神業としか言いようがありません。


「……三時のおやつまで、あと一時間ほど」

ノエルは壁の時計を確認しました。ガブリエル嬢は先ほど「おやつの時間になったら起こしてね」と言い残して、安らかな眠りに入ったのです。


その時でした。

執務室の扉から、涼やかな風がそっと入り込みました。天界の風は心地よいものですが、眠っているガブリエル嬢にとっては少し冷たく感じられるかもしれません。


ノエルは迷いました。

お休み中のガブリエル嬢を起こしてしまうのは申し訳ない。けれど、風邪でもひかれては大変です。


「……翼カバーを」

ふと、部屋の片隅に置かれた美しい布地が目に留まりました。純白の絹のような質感で、雲の繊維が丁寧に織り込まれているようです。これが、ガブリエル嬢が仮眠の際にお使いになる翼カバーだと、ノエルは説明を受けていました。


静かに立ち上がり、足音を忍ばせて翼カバーを手に取ります。

触れた瞬間、羽毛のような軽やかさと温もりが手のひらに伝わりました。天界の職人が心を込めて作り上げた、特別な一枚なのでしょう。


さて、問題はここからでした。

ガブリエル嬢に翼カバーをお掛けするには、どうしても彼女のすぐ近くまで近づかなければなりません。これまで、ノエルは適度な距離を保ちながらお仕えしていました。近侍としての礼儀を保つため、そして何より、大天使という存在への畏敬の念からです。


けれど今は、職務として近づく必要があります。

ノエルは深く息を吸い込んで、そっとガブリエル嬢の元へと歩み寄りました。


一歩、また一歩。

距離が縮まるにつれて、ノエルの心臓は静かに早鐘を打ち始めました。


ガブリエル嬢の寝息が聞こえてきます。

規則正しく、穏やかで、まるで子守唄のような響きでした。彼女の表情は安らかそのもので、普段の凛とした美しさとは異なる、無防備で愛らしい一面を垣間見せています。


ノエルは翼カバーを両手で持ち、慎重に広げました。

近づくほどに、ガブリエル嬢の翼の美しさに息を呑みます。真珠のような光沢を放つ羽根一枚一枚が、まるで芸術品のように完璧に整っています。天使の翼とは、これほどまでに神秘的で美しいものなのかと、ノエルは改めて感嘆しました。


いよいよ、翼カバーをお掛けする時が来ました。

ガブリエル嬢を起こさないよう、最大限の注意を払いながら、ノエルはそっとカバーを彼女の翼の上に置いていきます。


その瞬間でした。

ガブリエル嬢の羽根が、微かに震えました。


ノエルの手が止まります。起こしてしまったのでしょうか。

しかし、彼女の寝息は変わらず穏やかで、表情も安らかなままでした。おそらく、カバーの温もりを感じ取って、心地よく思われたのでしょう。


ノエルは安堵すると同時に、不思議な感覚を覚えました。

翼カバーを通じて伝わってくる、ガブリエル嬢の体温。羽根のかすかな動き。そして、この距離でしか感じることのできない、彼女の存在感。


今まで感じたことのない、特別な親近感がノエルの心に生まれました。

これは、単純な職務を超えた何かです。上司と部下という関係を越えて、一人の人として、ガブリエル嬢をもっと近くに感じているのです。


翼カバーを丁寧に調整しながら、ノエルは思いました。

このような至近距離で彼女にお仕えする機会は、そうそうないでしょう。近侍という立場だからこそ許される、特別な時間。そして、この距離で感じる彼女の温もりと、安らかな寝息の調べ。


「……美しい」

無意識に漏れた呟きに、ノエル自身が驚きました。


美しいのは、もちろんガブリエル嬢の翼のことです。しかし、その言葉には、翼だけでない何かも込められているような気がしました。この穏やかな午後の時間、静寂に包まれた空間、そして彼女の無防備な寝顔。全てが調和した、この瞬間そのものの美しさです。


翼カバーをかけ終えたノエルは、そっと後ずさりしました。

適切な距離まで戻ると、先ほどの親密さが夢だったかのように感じられます。けれど、心の奥では確かに、何かが変化していました。


ガブリエル嬢への尊敬の念は変わりません。むしろ、より深くなったといえるでしょう。しかし、それと同時に、もっと人間的で温かい感情も芽生えています。畏敬だけでなく、親愛の情とでも呼ぶべき気持ちです。


ノエルは自分の席に戻り、静かに彼女を見守りました。

翼カバーに包まれたガブリエル嬢は、さらに安らかな表情を浮かべています。風の冷たさから守られて、きっと心地よい眠りを続けておられることでしょう。


時計の針が、静かに時を刻んでいきます。

あと三十分もすれば、おやつの時間です。ガブリエル嬢は時間ぴったりに目を覚まし、いつものように「ありがとう」と微笑んでくださるでしょう。


その時を静かに待ちながら、ノエルは先ほどの出来事を心の中で反芻しました。

翼カバーをお掛けしただけの、ささやかな職務です。けれど、その中で感じた温もりと親密さは、きっと忘れることはないでしょう。


「……尊い」

また新しい感情を表す言葉が、自然に浮かんできました。


ガブリエル嬢という存在は、確かに尊いのです。大天使としての威厳、職務への完璧さ、そして今見せてくださった無防備な美しさ。そのすべてが、ノエルにとって尊く、大切な存在だと感じられます。


やがて時計が三時を告げようとした時、ガブリエル嬢の睫毛がふるりと震えました。

ゆっくりと目を開けた彼女は、身にかかった翼カバーに気づいて、柔らかく微笑みます。


「あら、ありがとう、ノエル」

澄んだ声が、午後の静寂に優しく響きました。


「いえ、風が少し涼しくなりましたので」

ノエルは丁寧に一礼しました。


ガブリエル嬢は翼カバーをそっと畳みながら、立ち上がります。

「おやつの時間ですね。一緒にいかがですか?」


「恐れ入ります」

ノエルの心は、温かい喜びで満たされました。


翼カバーをかける、それだけのことでした。けれど、その短い時間に、ノエルは大切な何かを見つけたのです。ガブリエル嬢への想いに、新しい色合いが加わりました。


尊敬と親愛、畏敬と親近感。

複雑でありながら美しい感情が、ノエルの心に静かに根付いていきました。


雲海に夕日が差し込み始めた頃、二人は並んでおやつの時間を過ごしました。翼カバーは丁寧に畳まれて、いつもの場所に戻されています。


けれど、ノエルの心の中では、あの温もりの記憶が大切に保管されていました。

## あとがき


翼カバーという小さな職務が、ノエルの心に静かな変化をもたらした午後の物語でした。距離が縮まることで生まれる新しい感情の芽吹きを、雲上の穏やかな時間と共にお届けしました。次回は、天界の日常に潜む別の発見が、二人の関係にどのような彩りを加えるのでしょうか。

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