第22話:「傷に宿る慈愛」
雲海の巡回任務は、天使にとって最も基本的な業務の一つでした。
ノエルは単独で天界の境界付近を飛行していました。異常がないか確認し、雲の状態を記録する日常的な任務です。
「今日は風が少し強いな」
独り言を呟きながら、慎重に飛行を続けます。でも、その直後でした。
突然の突風が、ノエルの体を大きく揺さぶります。慌てて体勢を立て直そうとした瞬間、翼の端が鋭い雲の結晶に触れました。
「あっ」
小さな痛みが走ります。見ると、翼の先端に小さな傷ができていました。
「これは...」
傷自体は小さいものの、放置すると悪化する可能性があります。応急処置が必要でした。
ノエルが困っていると、近くの雲の上に見慣れた姿がありました。ガブリエル嬢が散歩をしているようです。
「ガブリエル様!」
声をかけると、彼女はゆっくりと振り返りました。
「あら、ノエル...どうかしましたか?」
少し眠そうな声でしたが、ノエルの困った様子に気づいたようです。
「翼に少し傷を...」
「見せてください」
ガブリエル嬢が近づいてきました。傷を確認すると、すぐに手を翳します。
「簡易的ですが...処置しますね」
柔らかな光が、翼を包み込みました。その手つきは、想像以上に優しいものでした。
「少し染みるかも...しれません」
予告通り、微かな刺激が傷口に走りました。でも、それは痛みというより、温かい何かが浸透してくる感覚です。
眠そうなのに、指先から溢れる光は完璧に制御されていました。まつげが時々ふるふると揺れますが、手元はまったく揺らぎません。
「(眠そうなのに...すごい...)」
ノエルは心の中で感嘆していました。
「これで...応急処置は完了です」
光が消えると、傷の痛みは完全に消えていました。
「ありがとうございます、ガブリエル様!」
「でも...念のため...」
ガブリエル嬢が小さく欠伸をしながら続けました。
「ラファエルのところで...ちゃんと診てもらってください。彼の方が...治癒の専門家ですから」
「はい、分かりました」
そう言って別れた後、ノエルは師匠の治療室へと向かいました。
治療室では、ラファエルが穏やかに迎えてくれました。
「怪我をしたそうですね」
「はい、ガブリエル様に応急処置をしていただいたのですが」
そう言って翼を見せると、ラファエルは少し驚いた表情を見せました。
「これは...ガブリエル様の処置ですか?」
「はい」
「素晴らしい。完璧な応急処置です」
ラファエルが翼を丁寧に確認しながら言いました。
「実を言うと、これ以上何かする必要もないくらいですが...」
彼の手から、より深い治癒の光が溢れ出しました。
「念のため、奥深くまで確認させてもらいますね」
ラファエルの治療は、さすが専門家だけあって、より詳細で丁寧なものでした。翼の付け根から先端まで、全体を包み込むような光が満ちていきます。
「ガブリエル様の処置も完璧でしたよ。専門外なのに、あそこまでできるとは」
治療を続けながら、ラファエルが感心したように言いました。
「本当にすごい方なんですね」
ノエルの言葉に、ラファエルは優しく微笑みました。
「ええ。何でも高いレベルでこなしてしまう。あの方の才能は、天界でも随一です」
治療が終わると、翼は完全に治っていました。痛みも違和感も、何もありません。
「ありがとうございました、師匠」
「いえいえ。でも、ガブリエル様にもお礼を言っておくといいですよ」
治療室を出て、ノエルはガブリエル嬢の執務室へと向かいました。
執務室では、ガブリエル嬢が雲クッションに沈み込んでいました。先ほどの散歩で疲れたのか、すっかり微睡んでいます。
「ガブリエル様...」
そっと声をかけると、彼女はゆっくりと目を開けました。
「あら...ノエル...治療は...終わりましたか?」
「はい。ラファエル師匠のところで診ていただきました」
ノエルが報告すると、ガブリエル嬢は安心したように微笑みました。
「それは...良かった...」
「ガブリエル様の応急処置も完璧だったそうです」
その言葉に、ガブリエル嬢は少し照れたような表情を見せました。
「そうですか...ふわぁ」
小さな欠伸と共に、また眠そうになっています。
「本当にありがとうございました」
「いいえ...お大事に...してくださいね」
優しい言葉と共に、ガブリエル嬢は再び目を閉じ始めました。
「(治癒も完璧...本当にすごい人だ)」
ノエルは心の中で改めて感嘆していました。専門外でありながら、あれほど完璧な応急処置ができるなんて。
「尊い...」
いつもの口癖が、今日はいつもと少し違う響きで漏れました。
窓の外では、午後の雲海がゆったりと流れています。いつもと変わらない穏やかな風景です。
ガブリエル嬢の静かな寝息が、執務室に安らぎをもたらしていました。
翼を軽く動かしてみると、完全に治っているのが分かります。でも、最初に受けたガブリエル嬢の優しい処置の温かさは、まだ心の中に残っていました。
それが治癒術の余韻なのか、それとも別の何かなのか。ノエルにはまだ判断がつきませんでした。
## あとがき
任務中の小さな怪我がきっかけで、ガブリエル嬢の優しい応急処置を受けたノエル。その後ラファエル師匠の本格治療で、専門外でも完璧だったガブリエル嬢の能力の高さを再確認します。どちらもすごいけれど、ガブリエル嬢の万能さに改めて心惹かれる一日となりました。




