第2話:雲の硬度は何パーセント?
おやつの時間が過ぎた午後のことでした。
ガブリエル嬢が雲クッションから静かに身を起こすと、まつげに宿った光が、きらりと舞い散りました。
「あら、もうこんな時間」
伸びをしながら呟く姿は、まるで朝露に濡れた花のようです。ノエルは、その優雅な仕草に見惚れていました。
「ノエル、初めてのお仕事をお願いしましょうか」
「はい!何なりと!」
張り切って返事をするノエルに、ガブリエル嬢は微笑みました。
「雲クッションの調整をお願いします」
「雲……クッションの?」
ノエルは首をかしげました。雲でできたクッションに、調整など必要なのでしょうか。
「硬度を、少し変えていただきたいのです」
ガブリエル嬢の指先が、愛用のクッションをそっと撫でました。天界でも最上級の雲職人が作った特製品です。真珠のように輝く表面は、触れるだけで心が安らぎます。
「硬度……ですか」
「ええ。今のままでも悪くはないのですが、もう少し……」
言いかけて、ガブリエル嬢は小さく首を振りました。
「説明するより、体験していただいた方が早いでしょう」
そう言うと、執務机の引き出しから、小さな水晶の器を取り出しました。
「こちらが、雲の調整キットです。水晶粉末を混ぜ込むことで、硬さを変えることができます」
器の中には、虹色に輝く粉末が入っています。それは天界でも貴重な、純粋魔力の結晶でした。
「どの程度の硬さがお好みなのでしょうか」
ノエルが尋ねると、ガブリエル嬢はしばらく考え込みました。
「そうですね……雲のように軽やかで、でもしっかりと体を支えてくれて」
「はい」
「柔らかすぎると沈み込んでしまいますし、硬すぎると疲れてしまいます」
なるほど、と思いながら、ノエルはクッションを観察しました。確かに、よく見ると少し凹んだまま戻っていない部分があります。
「分かりました。やってみます」
ノエルは慎重に水晶粉末を手に取りました。まず、ごく少量をクッションの端に振りかけてみます。
粉末が雲に触れた瞬間、ふわりと光が広がりました。雲の密度が、わずかに変化しているのが分かります。
「おや」
ガブリエル嬢が興味深そうに見つめています。
「思ったより、変化が大きいですね」
試しに手で押してみると、確かに硬さが変わっていました。けれども、まだ十分ではないようです。
「もう少し、お願いします」
「はい」
ノエルは集中しました。ガブリエル嬢の好みを理解したい——その一心で、粉末を少しずつ調整していきます。
一回目は、少し硬すぎました。ガブリエル嬢が座ってみると、表情が微妙に曇ります。
「申し訳ありません」
「いえいえ、最初からうまくいくものではありませんから」
優しい言葉に励まされて、ノエルは二回目の調整に取り掛かりました。今度は、反発力を少し弱めに。
「いかがでしょうか」
恐る恐る尋ねると、ガブリエル嬢は雲クッションにゆっくりと身を預けました。しばらく沈黙が続きます。
「……んー」
小さな呟きが漏れました。まだ、完全ではないようです。
ノエルの額に、汗が浮かび始めました。
ガブリエル嬢のお好みを理解するのは、想像以上に難しいことでした。硬さだけでなく、弾力性、復元力、表面の手触り——すべてが絶妙なバランスで成り立っているのです。
三回目。
四回目。
五回目。
そのたびに、ガブリエル嬢は丁寧に感想を教えてくれました。
「こちらの角度で座ったときの沈み具合が」
「この部分の弾力が、もう少し」
「全体的な安定感は良いのですが」
細やかな感覚を言葉にしてくれるガブリエル嬢に、ノエルは深い感銘を受けていました。これほど繊細な感覚をお持ちなのです。
六回目の調整のとき、何かが変わりました。
粉末を振りかける瞬間、ノエルの手に、不思議な感覚が宿りました。ガブリエル嬢の好みが、まるで自分の感覚のように理解できるのです。
「今度は……どうでしょうか」
期待と不安が入り混じった声で尋ねると、ガブリエル嬢はクッションに座りました。
そして——
「あら」
目を少し見開きました。
「これは……」
ゆっくりと体の位置を変え、様々な角度で座り心地を確認しています。横になって、うつ伏せになって、再び座り直して。
「とても、良いですね」
ガブリエル嬢の顔に、満足そうな微笑みが浮かびました。
「ありがとうございます、ノエル。完璧です」
その言葉を聞いた瞬間、ノエルの胸に温かいものが広がりました。
ガブリエル嬢に喜んでいただけた——それだけで、どんな苦労も報われる気がします。
「……尊い」
思わず口をついて出た言葉に、ノエル自身が驚きました。
「え?」
ガブリエル嬢がきょとんとした表情を向けてきます。
「あ、いえ、その……」
慌てて取り繕おうとするノエルでしたが、適切な言葉が見つかりません。
ガブリエル嬢の満足そうな笑顔が、本当に美しくて。お役に立てた喜びが、胸の奥で光のように暖かくて。
「お役に立てて、光栄です」
やっとそう言うことができました。
「こちらこそ。おかげで、今夜はゆっくり休めそうです」
ガブリエル嬢は調整されたクッションに頬を寄せました。雲の柔らかさと、頬の柔らかさが、美しく調和しています。
窓の外で、夕暮れの雲海が金色に染まり始めました。
一日の終わりが近づいています。
「明日から、このクッションで毎日お昼寝をするのですね」
「ええ。ノエルが調整してくれたクッションで」
その言葉に、ノエルは不思議な充実感を覚えました。
自分が手を加えたクッションで、ガブリエル嬢が毎日休まれる。そう思うだけで、なぜかとても嬉しいのです。
「では、今日はお疲れさまでした」
「はい。お疲れさまでした、ガブリエル嬢」
執務室を出るとき、ノエルは振り返りました。
ガブリエル嬢は、早速新しいクッションで夕方の小休憩を始めていました。穏やかな表情で目を閉じる姿は、まるで天界の平和を体現しているようです。
扉を静かに閉めながら、ノエルは思いました。
この方をお守りすること。日々の小さな幸せをお手伝いすること。
それが、自分の使命なのかもしれません。
雲の向こうで、最初の星が瞬き始めました。
明日は、どんなお仕事が待っているのでしょうか。
## あとがき
ノエルの初任務、雲クッションの硬度調整をお届けしました。
細やかな感覚を言葉にしてくれるガブリエル嬢の優しさと、それに応えようと奮闘するノエルの一生懸命さ。
小さな成功体験から芽生える、新しい感情にご注目ください。