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第18話:「戦禍の記憶」

午後、天界の資料室は静寂に包まれていました。


ノエルは古い書棚の前で、大きな歴史書を手に取っていました。ガブリエル嬢から「天界の歴史について学んでおくように」と指示された課題でしたが、その重厚な装丁からただならぬ重要性を感じ取ります。


「『天魔大戦史』...」


表紙に刻まれた文字を読み上げたとき、ノエルの声は無意識に小さくなっていました。大戦という言葉が持つ重みが、なんとなく伝わってきたのです。


本を開くと、最初のページには地図が描かれていました。天界と魔界の位置関係、そしてその間に広がる中立地帯。現在は平和協定により安定している境界線が、かつては血で塗られた最前線だったのです。


「こんなに近い距離で...」


ノエルは地図を見つめながら呟きました。天界と魔界は、思っていたよりもずっと近い場所にありました。お互いが見える距離で、なぜこれほど激しい戦いが繰り広げられたのでしょうか。


頁をめくるたび、戦争の激しさが文字となって襲いかかってきます。


「第一次天魔衝突」「聖域侵攻事件」「大天使包囲戦」


どの文字も、ノエルにとって想像を絶する出来事でした。現在の穏やかな天界からは、とても考えられない激動の時代があったのです。


特に目を引いたのは、7大天使と7大悪魔の直接対決に関する記述でした。


「ガブリエル様とベルゼブブの空中戦は、三日三晩にわたって続いた...」


ノエルの手が、思わず震えました。毎日穏やかに微睡んでいるガブリエル嬢が、かつてはそのような激戦を繰り広げていたなんて。


本の中に挿入された挿絵を見ると、その激しさがより鮮明に伝わってきます。空を覆うほどの光と闇がぶつかり合い、雲海が嵐のように荒れ狂っている様子が描かれていました。


「ミカエル戦士長とアスモデウスの地上戦では、山が一つ消失した...」


普段の厳格だが穏やかなミカエルからは、到底想像できない破壊的な戦いの記録でした。山が消失するほどの戦闘とは、いったいどれほどの規模だったのでしょう。


読み進めるうち、ノエルの胸に重い感情が宿り始めました。それは恐怖とも畏敬とも言える複雑な気持ちでした。


「師匠のラファエルさんも...」


治癒の天使として知られるラファエルでさえ、戦争においては重要な役割を担っていました。味方の治療だけでなく、時には前線での戦闘にも参加していたのです。


優しい指導で知られる師匠の、別の顔を知ることになりました。


戦争の期間は想像以上に長く、激しいものでした。数百年にわたって断続的に続いた争いは、天界と魔界の両方に深い傷跡を残していたのです。


「これほどまでに...」


ノエルは本を閉じて、深いため息をつきました。現在の平和な関係が、いかに奇跡的なものかを理解し始めています。


雨が窓を叩く音が、戦場の記憶を呼び起こすかのように響いていました。


その時、資料室の扉がそっと開きました。振り返ると、ガブリエル嬢が静かに入ってきます。雨に濡れないよう、薄い羽織りを羽織っていました。


「勉強は進んでいますか?」

「はい、ガブリエル様」


ノエルは立ち上がって答えましたが、声に困惑が含まれているのを隠せませんでした。


「難しい内容でしたか?」


ガブリエル嬢の声には、いつもの穏やかさに加えて、何か深い理解のようなものが感じられました。


「はい...こんなに激しい戦争があったなんて」

「そうですね」


ガブリエル嬢は窓の外を見つめながら答えました。雨雲の向こうに、魔界の方角があります。


「信じられないかもしれませんが、あの記録は全て事実です」


その言葉には、実際に体験した者だけが持つ重みがありました。ノエルは改めて、目の前にいる人物の偉大さを実感します。


「ガブリエル様も...戦われたのですね」

「ええ。長い間でした」


ガブリエル嬢の表情に、わずかな影が差しました。それは遠い記憶への郷愁とも、深い疲労の名残とも見えます。


「でも、今は平和です」


彼女は振り返って、優しく微笑みました。その笑顔には、困難を乗り越えた者だけが持つ深い安らぎが宿っています。


「この平和は、多くの犠牲の上に築かれたものです。だからこそ、大切にしなければなりません」


ノエルは深く頷きました。本で読んだ激戦の記録と、目の前の穏やかなガブリエル嬢の姿。その対比が、平和の尊さを雄弁に語っていました。


「現在、魔界の方々と良好な関係を築けているのも、お互いが戦争の虚しさを知っているからなのです」


ガブリエル嬢の言葉に、深い哲学が込められていました。憎しみではなく理解を、対立ではなく協調を選んだ両陣営の英断の重さ。


「僕も、この平和を守るお手伝いができるでしょうか」

「もちろんです」


ガブリエル嬢の即答に、確信が込められていました。


「あなたのような心優しい天使が増えることこそ、平和への一番の貢献なのです」


褒められて、ノエルの頬がほんのりと赤くなりました。でも、それ以上に嬉しかったのは、自分も平和に貢献できるという希望を与えてもらったことでした。


雨が小降りになり、雲の隙間から午後の光が差し込んできました。


「さて、そろそろおやつの時間ですね」


ガブリエル嬢がいつもの調子で呟くと、重かった資料室の空気が軽やかになりました。戦争の記憶も大切ですが、日常の小さな幸せもまた、平和の象徴なのかもしれません。


「一緒にお茶でもいかがですか?」

「ありがとうございます」


ノエルは歴史書を丁寧に書棚に戻しながら、今日学んだことを心に刻みました。戦争の激しさ、平和の尊さ、そしてそれを守る責任。


資料室を出るとき、もう一度振り返って本棚を見つめました。あの重厚な歴史書の中に眠る記憶たちが、現在の自分たちを見守ってくれているような気がします。


廊下を歩きながら、ノエルはガブリエル嬢の横顔を見つめていました。戦争を経験し、平和を築き上げた偉大な天使。その人に仕えることができる自分の幸運を、改めて深く感じています。


「尊い...」


いつもの口癖が、今日はいつもより深い敬意を込めて響きました。ガブリエル嬢の尊さは、単なる美しさや能力を超えて、歴史を背負った存在としての重みなのかもしれません。


お茶の時間を過ごしながら、ノエルの心には新しい決意が芽生えていました。この平和を守り、さらに発展させていくために、自分にできることを見つけたい。そして、ガブリエル嬢のような立派な天使になりたい。


窓の外では雨が完全に止み、虹が雲海にかかっていました。戦争の記憶を学んだ日に見る虹は、希望の象徴のように美しく輝いて見えます。


歴史を知ることで、現在の価値がより深く理解できました。そして、未来への責任も感じることができました。ノエルの天使としての歩みに、また一つ大切な学びが加わった一日でした。

## あとがき


天魔大戦の歴史を学んだノエルの心に、現在の平和がいかに貴重なものかという認識が深く刻まれました。ガブリエル嬢の過去の体験を知ることで、彼女への尊敬がさらに深まります。平和を守る責任感が芽生えた彼に、これからどのような成長の機会が待ち受けているのでしょうか。

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