第17話:「近侍としての矜持」
雲上の朝は、いつものように静寂に包まれていました。ノエルがガブリエル嬢の執務室に到着すると、彼女はすでに机の前で軽やかに眠っていました。
朝の光が雲クッションを照らし、その穏やかな寝息が室内に安らぎをもたらしています。ノエルは足音を立てないよう気をつけながら、そっと一日の準備を始めました。
近侍としての役割は、想像していたより遥かに奥深いものでした。
まず、ガブリエル嬢の好む温度に室内を調整します。少し涼しめが良いのか、それとも温かめが良いのか。彼女の表情や寝息の深さから、ノエルは慎重に判断していました。
「少し寒いかな...」
小さく呟きながら、窓辺の雲調整器を操作します。天界の気候制御装置は繊細で、わずかな変化でも室内の雰囲気が変わってしまうのです。
次に、本日のスケジュールを確認します。午前中は天界の庭園視察、午後は新人天使の面談、夕方は定例会議。ガブリエル嬢の一日は、傍目には穏やかに見えても、実は多くの重要な業務で埋まっていました。
「視察の際は、日除けの羽織りを...」
ノエルは彼女の衣装棚から、薄手の白い羽織りを選び出しました。ガブリエル嬢は強い光が苦手なようで、屋外での業務の際には必ずこうした配慮が必要でした。
それは単なる推測ではありませんでした。彼女が眩しそうに目を細める仕草や、日陰を選んで立つ習慣を、ノエルは注意深く観察していたのです。
「あら、おはようございます」
やわらかな声に振り返ると、ガブリエル嬢がゆっくりと目を開けていました。起き抜けの彼女は、いつもより一層穏やかな表情をしています。
「おはようございます、ガブリエル様。本日のスケジュールを確認いたします」
ノエルは手に持った資料を丁寧に読み上げました。一つ一つの予定について、必要な準備や注意事項を添えながら。
「庭園視察の際は、こちらの羽織りをお持ちしました」
「あら、ありがとう」
ガブリエル嬢の目が、微かに和らぎました。その小さな変化を見逃さなかったノエルは、嬉しさで胸がいっぱいになります。
「光蜜水も、少し冷たくしてお持ちします」
「そうですね。外は温かそうですから」
彼女の好物である光蜜水も、その日の気温や予定に合わせて温度を調整する必要がありました。暖かい日には少し冷たく、寒い日には常温で。そんな細やかな配慮が、近侍の役割には求められていました。
「新人面談の資料はこちらに」
ノエルは整理された書類を机の上に置きました。ガブリエル嬢が確認しやすいよう、重要度順に並べ直してあります。
「とても読みやすく整理されていますね」
「ありがとうございます」
褒められて、ノエルの頬がほんのりと温かくなりました。でも、それ以上に嬉しかったのは、自分の工夫が彼女の役に立っているということでした。
ガブリエル嬢は書類に目を通しながら、時折小さく頷いています。その集中した横顔を見ていると、彼女がいかに責任感の強い天使なのかがよく分かりました。
「(今日もお昼寝しそうだけど...でも、こんなにたくさんの仕事を完璧にこなすんだ)」
ノエルの心の中で、改めて感嘆の声が響きました。表面的に見えるゆったりとした態度の裏に、どれほどの実力と努力が隠されているのか。
「ノエル、雲クッションの調子はいかがですか?」
「はい、昨日職人さんに調整していただきました。お好みの硬さになっているかと思います」
実は、ノエルは昨夜遅くまで雲工房にいました。ガブリエル嬢が最も安らげる硬度を職人さんと一緒に研究していたのです。
「そうでしたか。いつもありがとう」
その感謝の言葉には、単なる礼儀を超えた温かさが込められていました。ノエルは、自分の努力が確実に彼女に届いていることを実感します。
庭園視察の時間が近づくと、ノエルは用意した羽織りと光蜜水を持って彼女に付き従いました。屋外に出ると、確かに日差しが強く感じられます。
「眩しいですね」
ガブリエル嬢が小さく目を細めた瞬間、ノエルはすかさず羽織りを差し出しました。そのタイミングの良さに、彼女が少し驚いたような表情を見せます。
「ありがとう。とても助かります」
庭園を歩きながら、ガブリエル嬢は各所の状況を確認していきます。花壇の手入れ状況、噴水の動作確認、休憩所の清掃状態。一見のんびりとした視察ですが、実は天界の環境維持という重要な業務でした。
「こちらの花壇、少し水が足りないようですね」
「申し伝えておきます」
ノエルは彼女の指摘を漏らさずメモしていきます。細かな観察力と的確な判断力。ガブリエル嬢の能力の高さに、改めて感服させられました。
視察が終わって執務室に戻ると、新人面談の時間でした。ノエルは控えめに後ろで待機しながら、ガブリエル嬢の指導を見学させてもらいます。
「緊張しなくて大丈夫ですよ」
新人天使に向けられるガブリエル嬢の声は、いつもより一層優しく響きました。相手の緊張をほぐそうとする心遣いが伝わってきます。
面談中、ノエルは必要に応じて資料を準備したり、お茶を淹れたりしました。ガブリエル嬢が次に何を必要とするか、だんだん予測できるようになってきています。
「お疲れさまでした」
面談が終わると、ガブリエル嬢は小さく伸びをしました。人と向き合う時間は、思っている以上に集中力を要するのでしょう。
「光蜜水、常温でお持ちしました」
「ちょうど良いですね」
室内に戻ったばかりで体が少し冷えていることを考慮して、ノエルは温度を調整していました。その心遣いに、ガブリエル嬢が満足そうな表情を見せます。
夕方の定例会議まで、少し時間がありました。ガブリエル嬢はいつものように雲クッションに向かいます。
「おやつの時間になったら起こしてくださいね」
お決まりの言葉と共に、彼女は眠りに就きました。その寝顔を見守りながら、ノエルは今日一日を振り返っています。
近侍の役割は、単なる作業の手伝いではありませんでした。相手の好みを理解し、必要を先回りして察知し、最適なタイミングでサポートする。それは技術と心遣いが融合した、とても奥深い仕事でした。
「尊い...」
いつもの口癖が、今日はいつもより深い意味を持って響きました。ガブリエル嬢の仕事ぶりも、それを支える自分の役割も、どちらも尊いものだと感じられます。
時計を見ると、おやつの時間まであと少しでした。ノエルは台所に向かい、彼女の好きな雲菓子を準備します。今日は少し甘めのものが良いかもしれません。
お茶の温度も、彼女の好みに合わせて調整します。熱すぎず、ぬるすぎず。何度も練習して覚えた、絶妙な温度でした。
「ガブリエル様、おやつの時間です」
静かに声をかけると、彼女はゆっくりと目を開けました。準備されたおやつを見て、小さく微笑みます。
「いつもありがとう、ノエル」
その言葉の中に込められた信頼と感謝を感じ取って、ノエルの胸が温かくなりました。近侍として、少しずつ彼女の役に立てているのかもしれません。
定例会議の時間が近づくと、ノエルは必要な資料を準備しました。会議中に使う可能性のある参考資料まで含めて、漏れのないよう確認します。
「準備は万端ですね」
ガブリエル嬢の言葉に、ノエルは静かに頷きました。近侍としての矜持が、胸の奥で確かに育っていることを感じています。
この仕事は、単に命令に従うだけのものではありませんでした。相手を深く理解し、その人が最高のパフォーマンスを発揮できるよう支える。それは技術であり、芸術であり、そして愛情でもありました。
夕日が雲海を染める時間になっても、ノエルの心は充実感で満たされていました。今日もまた、ガブリエル嬢の一日を支えることができた。その事実が、何よりも嬉しく感じられます。
近侍としての道のりは、まだ始まったばかりでした。でも、確実に歩むべき方向が見えてきています。ガブリエル嬢という素晴らしい天使を支え、共に成長していく道。それこそが、ノエルにとって最も尊い使命でした。
## あとがき
近侍業務の奥深さと、相手を思いやることの大切さを学んだノエル。ガブリエル嬢の好みや習慣を理解し、先回りして配慮する技術は、単なる仕事を超えた心の通い合いへと発展していきます。彼の中に芽生えた職業への矜持が、二人の関係にどのような変化をもたらすのでしょうか。




