第14話:無防備な美しさの前で
雲海に午後の陽光が静かに差し込む頃、天界の執務室では穏やかな時間が流れていました。
ガブリエル嬢は重要な神託の解析に取り組んでおられましたが、その作業も無事に終了したところです。
「これで今日の案件は完了ですね」
ノエルが書類を整理している間に、ガブリエル嬢はデスクに向かったまま、静かに目を閉じられました。
いつものように、仕事の後の小休憩です。
完璧に業務をこなした後の、自然で美しい休息の時間。
ノエルは音を立てないよう注意しながら、残りの事務作業を続けました。
書類のファイリング、明日の予定確認、備品の整理。どれも大切な業務ですが、ガブリエル嬢のお休みを妨げないよう、静寂を保つことがより重要でした。
しばらくすると、小さな寝息が聞こえ始めました。
規則正しく、とても穏やかな呼吸です。まるで子守唄のような、安らかな音律でした。
ノエルはそっと顔を上げ、ガブリエル嬢の様子を確認しました。
デスクに両手を重ね、その上に頬を乗せるような姿勢で眠っておられます。仕事中の凛とした表情とは異なる、完全に力の抜けた安らかな表情でした。
美しい、とノエルは思いました。
しかし、それは今まで感じていた「神々しい美しさ」とは少し違うものでした。
普段のガブリエル嬢は、大天使としての威厳と神聖さに満ちています。
その美しさは、まさに天界にふさわしい荘厳なものでした。
しかし、今目の前にある美しさは、もっと人間的で身近なものです。
無防備で、安らかで、見ているだけで心が温かくなるような美しさでした。
長い睫毛が頬に影を落とし、微かに開いた唇からは静かな寝息が漏れています。
普段きちんと結われている髪も、少しだけほつれて顔にかかっていました。
完璧に整った姿ではありませんが、だからこそより美しく見えるのかもしれません。
作られた美しさではない、自然で素直な美しさがそこにありました。
ノエルはファイリングの手を止めて、しばらくその様子を見守っていました。
こんなに間近で、こんなに長い時間、ガブリエル嬢の寝顔を見つめるのは初めてのことです。
時間が止まったような、特別な静寂の中で、何か新しい感情が心の奥で生まれているのを感じました。
それが何なのか、まだはっきりとは分かりません。けれど、これまで感じたことのない、特別で大切な何かでした。
頬に落ちた髪の毛が、寝息と共にわずかに揺れています。
その小さな動きさえも、ノエルには愛おしく思えました。
愛おしい——その言葉が頭に浮かんだ瞬間、ノエルは軽い驚きを覚えました。
尊敬する上司に対して、「愛おしい」という感情を抱いていることに、初めて気づいたのです。
しかし、それは決して不適切な感情ではありませんでした。
むしろ、とても自然で温かい気持ちです。大切な人の安らかな姿を見る時に感じる、純粋で美しい感情でした。
ガブリエル嬢の表情は、深い安らぎに満ちています。
日々の責任や緊張から完全に解放され、心の底からリラックスしている様子が伝わってきました。
このような表情を見せてくださることに、ノエルは深い信頼を感じました。
完全に無防備な姿を見せるということは、それだけ安心してくださっているということでもあるのです。
そう思うと、胸の奥が温かくなりました。
自分が信頼されているという実感と、その信頼に応えたいという気持ち。
しかし、それ以上に強く感じるのは、このような美しい瞬間を見守ることができる幸福感でした。
特別なことが起こっているわけではありません。ただ静かに眠っているだけです。
それなのに、なぜこれほど心が満たされるのでしょうか。
ノエルは静かに考えました。
もしかすると、人の本当の美しさは、このような無防備な瞬間にこそ現れるのかもしれません。
作られた完璧さではなく、自然な状態でこそ輝く美しさ。
それを間近で見ることができる自分は、なんと幸運なのでしょう。
窓から差し込む午後の光が、ガブリエル嬢の髪に柔らかなハイライトを描いています。
まるで絵画の一場面のような、美しい光景でした。
しかし、どんな絵画も、この瞬間の美しさには敵わないでしょう。
生きている人だからこそ持つ、温かさと愛らしさがそこにはありました。
愛らしい——また新しい言葉が浮かびました。
尊敬する上司であり、憧れの存在であるガブリエル嬢を、「愛らしい」と感じている自分がいます。
その発見に、ノエルは少し戸惑いました。
これは一体、どのような感情なのでしょうか。
尊敬とは違います。憧れとも違います。
もっと身近で、もっと温かく、もっと大切にしたいと思わせる感情です。
小さく寝息を立てながら眠るガブリエル嬢を見ていると、守ってあげたいという気持ちが湧いてきました。
このまま静かに眠らせてあげたい。邪魔をしないように、そっと見守っていたい。
その気持ちは、とても自然で美しいものでした。
打算も計算もない、純粋に相手を思う気持ちです。
やがて、時計が三時を告げる音が静かに響きました。
おやつの時間です。
ノエルは少し迷いました。
起こすべきか、それともこのまま眠らせてあげるべきか。
しかし、ガブリエル嬢はいつも「おやつの時間になったら起こしてね」とおっしゃいます。
それならば、お言葉通りにするのが一番でしょう。
「ガブリエル嬢」
できるだけ静かに、優しく声をかけました。
「……はい?」
ゆっくりと目を開けたガブリエル嬢は、少し寝ぼけた表情でノエルを見つめました。
その瞬間、ノエルの心は小さく跳ねました。
寝起きの少しぼんやりとした表情が、言いようもなく愛らしく見えたのです。
「おやつの時間になりました」
「あら、そうですか」
ガブリエル嬢はゆっくりと身体を起こし、軽く背伸びをしました。
その何気ない仕草も、ノエルには特別なもののように映りました。
「ありがとう、ノエル」
微笑みながら言われたその言葉に、ノエルの胸は温かい喜びで満たされました。
「いえ、お疲れさまでした」
お茶の準備をしながら、ノエルは先ほどの気持ちを整理していました。
これまで感じていた尊敬や憧れに加えて、新しい感情が生まれたのです。
それは、もっと身近で、もっと温かい感情でした。
相手のことを大切に思い、幸せでいてほしいと願う気持ち。
「……尊い」
いつものように口をついた言葉でしたが、今日はいつもとは少し違う響きがありました。
神聖さへの畏敬だけではなく、もっと親しみやすい愛おしさも込められた「尊い」でした。
おやつの時間が始まると、ガブリエル嬢はいつものように穏やかな表情を見せました。
しかし、ノエルにとっては、すべてがこれまでと少し違って見えました。
一つ一つの仕草、一つ一つの表情が、以前よりもずっと魅力的に感じられるのです。
これが成長なのでしょうか。
それとも、単に相手をより深く知ったということなのでしょうか。
理由はわかりませんが、確実に言えることがありました。
ガブリエル嬢への気持ちが、より豊かで複雑なものになったということです。
夕方になり、一日の業務が終わりに近づいた頃、ノエルは今日の発見を静かに振り返っていました。
人の新しい一面を知ることの喜び。無防備な美しさが持つ特別な魅力。
そして、自分自身の心に生まれた新しい感情の存在。
これからも、このような瞬間に立ち会えることを、ノエルは心から楽しみにしていました。
ガブリエル嬢の様々な表情を知り、自分自身の気持ちもより深く理解していけることを。
夜が更け、雲海に星が瞬く頃、ノエルは新たな感情を胸に眠りにつきました。
明日もまた、ガブリエル嬢の美しい瞬間に出会えることを願いながら。
無防備な寝顔が教えてくれた新しい気持ち。それは、人を知ることの深さと、感情の豊かさを教えてくれる、かけがえのない贈り物でした。
## あとがき
執務中のガブリエル嬢の無防備な寝顔を通じて、尊敬を超えた新しい感情の芽生えを静かに描いた物語でした。作られた美しさではない自然な魅力と、それに触れることで生まれる心の変化をお届けしました。次回は、天界の基礎訓練を通じて、ノエルがどのような成長の手応えを感じるのでしょうか。




