第12話:並び歩く幸福感
雲海に夕方の光が優しく差し込む頃、ガブリエル嬢から予期せぬ提案がありました。
「ノエル、少し散歩でもいかがでしょうか」
一日の業務を終えた安らぎの時間。
執務室で微睡んでいたガブリエル嬢が、ゆっくりと立ち上がりながら言いました。
「はい、ぜひ」
ノエルは喜んで承諾しました。
これまで業務でのやりとりばかりでしたが、こうして一緒に歩く時間をいただけるとは思いもしませんでした。
二人は執務棟を出て、天界の雲上散歩道へと向かいました。
夕陽に染まる雲海が、まるで絵画のように美しく広がっています。そよ風が頬を撫でていく心地よさに、ノエルの心も自然と軽やかになりました。
歩き始めてすぐに、ノエルは気づくことがありました。
ガブリエル嬢の歩くペースが、とてもゆったりとしているのです。
普段の業務での機敏さとは対照的な、のんびりとした足取り。
一歩一歩を大切にするかのように、ゆっくりと雲の道を進んでいきます。
最初、ノエルは自分の歩調で歩いていました。
しかし、気がつくとガブリエル嬢から数歩前に出てしまっています。
「あ、すみません」
慌てて歩調を緩めるノエルに、ガブリエル嬢は穏やかに微笑みました。
「急ぐ必要はありませんよ。散歩は、ゆっくりが一番です」
その言葉に従って、ノエルは意識的にペースを落としました。
すると、今まで気づかなかった景色の美しさが見えてきたのです。
雲の合間から差し込む光の筋。
風に揺れる雲草の繊細な動き。
遠くから聞こえてくる、天使たちの穏やかな話し声。
急いで歩いていては見過ごしてしまうような、小さな美しさがそこにありました。
「良い風ですね」
ガブリエル嬢が静かに言いました。
「はい、とても気持ちが良いです」
ノエルも同じように風を感じながら答えました。
二人の歩調が合ってくると、不思議な一体感が生まれました。
足音も呼吸も、自然と同じリズムになっていきます。まるで昔からずっと一緒に歩いてきたかのような、調和した時間の流れでした。
ガブリエル嬢の横顔を見ると、いつものように穏やかな表情をしています。
歩きながらも、どこかうとうとしているような、まどろみの気配が漂っていました。
その安らかな雰囲気に包まれて、ノエルも次第に心が穏やかになっていきます。
日々の緊張や不安が、雲海の風に吹き飛ばされるような心地よさでした。
「この道は、よく散歩されるのですか?」
ノエルが尋ねると、ガブリエル嬢は小さく頷きました。
「時々。一人で歩くことが多いのですが……」
少し間を置いて、微笑みながら続けました。
「二人だと、より楽しいですね」
その言葉に、ノエルの心は温かい喜びで満たされました。
自分と一緒の時間を楽しんでくださっているという実感。それは何にも代えがたい幸福感でした。
歩き続けるうちに、ガブリエル嬢のゆったりとしたペースに完全に慣れてきました。
もはや意識することなく、自然に彼女の歩調に合わせることができています。
そして、その時初めて理解したのです。
急ぐことなく、目的地を定めることなく、ただ歩くことの美しさを。
散歩とは、どこかに行くためのものではなく、その瞬間瞬間を味わうためのものなのだと。ガブリエル嬢は、そのことを身をもって教えてくださっているのでした。
雲の噴水のほとりで、二人は少し立ち止まりました。
「少し休憩いたしましょうか」
噴水の縁に腰を下ろすと、ガブリエル嬢は心地よさそうに目を細めました。
水音と風の音が調和した、天界ならではの音楽が空間を包んでいます。
「眠くなってきませんか?」
ガブリエル嬢が、いかにも眠そうに言いました。
確かに、ノエルも眠気を感じ始めていました。
しかし、それは疲労による眠気ではありません。深い安らぎがもたらす、心地よい眠気でした。
「少し……でも、気持ちの良い眠気です」
「そうですね。平和な証拠ですわ」
ガブリエル嬢の言葉には、深い智恵が込められていました。
本当に心が安らいでいる時、人は自然と眠気を感じるものなのかもしれません。
休憩を終えて再び歩き始めると、今度はノエルから歩調を合わせることができました。
ガブリエル嬢のペースを完全に理解し、それに寄り添うように歩くことができるのです。
その時の一体感は、言葉では表現しきれないものでした。
二人で歩くことの喜び。歩調を合わせることで生まれる親密さ。そして、時間を共有することの幸福感。
「あら」
ふと、ガブリエル嬢が足を止めました。
「もう随分歩きましたね」
振り返ると、確かに出発点からかなりの距離を歩いていました。
「時間を忘れておりました」
ノエルも驚きました。
これほど長い距離を歩いていたとは思えないほど、時間が短く感じられたのです。楽しい時間は早く過ぎるとは言いますが、今日の散歩はまさにそれでした。
帰り道も、同じようにゆったりとしたペースで歩きました。
行きとは違う道を選んだガブリエル嬢の提案で、新しい景色を楽しみながらの散歩です。
「違う道だと、また違った美しさがありますね」
「はい。天界には、まだまだ知らない美しい場所がたくさんあります」
そんな会話を交わしながら、二人は夕暮れの雲海を歩き続けました。
会話があってもなくても、その時間はかけがえのないものでした。
執務棟が見えてきた頃、ノエルは心から思いました。
これほど幸せな時間を過ごしたのは、久しぶりのことでした。
特別なことをしたわけではありません。
ただ一緒に歩き、同じ景色を見て、同じ風を感じただけです。
しかし、その何気ない時間にこそ、人と人とのつながりの本質があるのかもしれません。歩調を合わせることで生まれる信頼関係。時間を共有することで深まる理解。
「お疲れさまでした」
執務棟の前で、ガブリエル嬢が微笑みながら言いました。
「こちらこそ、ありがとうございました」
ノエルの答えには、心からの感謝が込められていました。
「また、お時間がある時に」
「ぜひ、よろしくお願いいたします」
別れ際の約束に、ノエルの心は温かい期待で満たされました。
またこのような時間を過ごすことができるなんて、なんと幸せなことでしょう。
宿舎に戻る道すがら、ノエルは今日の散歩を振り返りました。
ガブリエル嬢のゆったりとした歩調に合わせることで学んだ、時間の美しさ。急がないことの価値。そして、何気ない瞬間にこそ宿る幸福感。
「……尊い」
いつものように口をついた言葉には、新たな深みがありました。
一緒に歩くだけで、これほど心が満たされるとは。人と時間を共有することの素晴らしさを、身をもって体験した貴重な夕方でした。
夜が更け、雲海に星が瞬く頃、ノエルは今日の幸福感を胸に眠りにつきました。
明日もまた、ガブリエル嬢との穏やかな時間があることを願いながら。
遠くの夜空では、同じ星を見上げているガブリエル嬢がいるかもしれません。今日の散歩を静かに思い返しながら、また一緒に歩ける日を楽しみにしているかもしれません。
並んで歩くことの何気ない幸せ。それは、人生で最も大切なものの一つなのかもしれませんでした。
## あとがき
ガブリエル嬢とのゆったりとした散歩を通じて、急がない時間の美しさと、歩調を合わせることで生まれる親密さを描いた物語でした。何気ない瞬間にこそ宿る真の幸福感と、人と時間を共有することの尊さをお届けしました。次回は、日常業務の中で垣間見える、ガブリエル嬢の驚異的な能力に、ノエルがどのような感嘆を覚えるのでしょうか。




