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第1話:雲上に舞い降りた新人天使



雲の上の、とある静かな朝でした。


天界の行政区画、神の伝令部門の扉が、かすかな音を立てて開きました。新人天使ノエルが、緊張で羽を小刻みに震わせながら、一歩ずつ足を進めています。


「本日より、ガブリエル嬢の近侍を務めさせていただきます、ノエルと申します」


清らかな声が、雲に吸い込まれるように響きました。


配属通知を受け取ったとき、ノエルの胸は希望で満たされていました。憧れの大天使ガブリエル嬢——神の伝令として天界でも最も高い地位にあるお方に、直々にお仕えできるのです。


優雅な執務室の奥で、白い雲クッションにもたれかかる美しい女性が、静かに息づいています。金色の髪が光に揺れ、羽は真珠のように輝いています。


ガブリエル嬢でした。


けれども。


「……(こくり)」


小さく頷いたかと思うと、美しいまつげが、ふわりと伏せられました。


ノエルは目を丸くしました。大天使様が——寝ていらっしゃるのでしょうか。


「あの……ガブリエル嬢?」


おそるおそる声をかけると、まつげがかすかに動きます。


「……あら」


薄く目を開けたガブリエル嬢は、少しだけきょとんとした表情を浮かべました。


「新しい近侍の方ですね。ノエル……さん」


「はい!」


ノエルが背筋を伸ばしたとき、雲クッションから優雅に立ち上がったガブリエル嬢の手元で、光が踊りました。神託の水晶が、美しい音色を響かせています。


「では、午前の神託確認をしましょうか」


その瞬間でした。


ガブリエル嬢の指先が、まるで光と戯れるように踊りました。水晶の輝きが七色に分かれ、複雑な神託の文字が宙に浮かび上がります。人間界への慈愛の光、天候の調整、奇跡の配分——膨大な情報が、瞬く間に整理されていきます。


「今日の配信は、こちらの地域に温かな光を重点的に。こちらには午後から雨の恵みを」


流れるような動作で、ガブリエル嬢は神託を分類し、各担当部署への指示を的確に出していきます。その手際の良さは、まるで雲が風に乗って形を変えるように、自然で美しいものでした。


「以上です。午後の定期報告は、いつもの時間に」


すべてが完了したとき、時計の針は、たった十五分しか動いていませんでした。


ノエルは呆然としました。これほど複雑な業務を、こんなに短時間で——しかも、完璧に。


「……おやつの時間になったら起こしてね」


そう言うと、ガブリエル嬢は再び雲クッションにもたれかかりました。まつげが伏せられ、穏やかな寝息が聞こえ始めます。


「は……はい」


ノエルは返事をしましたが、頭の中は混乱していました。


憧れの大天使様は、確かに素晴らしいお方でした。神託の処理能力は圧倒的で、判断力も的確です。けれども——


お昼寝……?


雲の向こうから、やわらかな光が差し込んできました。ガブリエル嬢の頬を照らす光は、まるで祝福のようです。静かな寝息と共に、羽がかすかに上下しています。


「……尊い」


思わず漏れた言葉に、ノエル自身が驚きました。


なんと表現していいのか分からない感情が、胸の奥で温かく広がっています。困惑と、感動と、そして——なぜか微笑ましさが混ざり合った、不思議な気持ちでした。


時間が、ゆっくりと流れます。


ノエルは、そっと近くの椅子に腰を下ろしました。初日の業務は、どうやらガブリエル嬢の見守りから始まるようです。


窓の外では、雲海が静かに波打っています。遠くの方で、他の天使たちが飛び交っているのが見えました。きっと皆、忙しく働いているのでしょう。


でも、ここだけは別世界のように静かです。


「新人の頃は、誰でも戸惑うものですよ」


突然の声に、ノエルは振り返りました。扉の前に、優しい表情の天使が立っています。


「私はラファエル。治癒と癒しを司っています。そして——」


彼は微笑みました。


「君の指導を担当することになりました。よろしく、ノエル」


「あ、はい!よろしくお願いします!」


慌てて立ち上がろうとしたノエルを、ラファエルが手で制しました。


「静かに。ガブリエル嬢のお休み時間ですからね」


そう言って、ラファエルもガブリエル嬢を見つめました。


「最初は驚くでしょう?でも、彼女ほど優秀な天使はいません。まどろみは、彼女にとって大切な時間なのです」


「まどろみ……ですか?」


「回復と癒しの時間。そこから、また新しい力が生まれるのです」


ラファエルの説明を聞いて、ノエルの心に、少しだけ理解の光が差しました。


雲クッションの上で、ガブリエル嬢が小さく身動きをしました。唇が、わずかに微笑みの形になります。きっと、いい夢を見ているのでしょう。


「……さ」


かすかに聞こえた寝言に、ノエルの頬が温かくなりました。


なんて愛らしい——


いけない、いけない。ノエルは慌てて思考を切り替えました。相手は雲上でも最高位の大天使様なのです。


けれども。


ガブリエル嬢の寝顔は、本当に美しくて——


「焦らず、優しく、着実に」


ラファエルが、そっと助言をくれました。


「彼女を理解するのに、時間はかかりません。でも、急ぐ必要もありません」


「はい……」


ノエルは、改めてガブリエル嬢を見つめました。


神々しいまでの美貌、圧倒的な業務能力、そして——愛らしいまどろみの時間。


これから、どんな毎日が待っているのでしょうか。


窓辺の雲が、形をやわらかく変えました。


「おやつの時間まで、あと二時間ほどです」


ラファエルが時計を確認して、微笑みました。


「君の天界での生活も、これから始まります」


こうして、新人天使ノエルの雲上生活が静かにスタートしました。


憧れの大天使様は、思っていたのとは違う方でした。けれども——きっと、想像していたよりも、ずっと素敵な方なのでしょう。


答えは、次のおやつの時間に分かるかもしれません。

## あとがき


新人天使ノエルと、まどろみ天使ガブリエル嬢の出会いをお届けしました。

最初の困惑から始まる物語、雲の上でゆっくりと育まれる関係性を見守っていただければ嬉しいです。

次回は、ノエルの初任務が待っています。

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