大寒(だいかん)
一六〇〇年、九月十五日。
岐阜城の一室で、徳川家康はごろごろしていた。
(関ヶ原の方は、どうなっているかな)
本当は自分も戦場に出たかったのだが、
――いざ関ヶ原へ!
あの発言のあとに裏で、本多忠勝と井伊直政と黒田長政の三人が怖い顔をして、「殿は城に戻ってください!」と詰め寄ってきた。素直に従うしかなかったのだ。
なので、関ヶ原の東軍本陣にいるのは、影武者である。
すでに戦いは始まっているらしい。天下分け目の戦いだ。
東軍が勝つのか、西軍が勝つのか。
今のところ、一進一退の攻防が続いているそうだ。
東軍はよく戦っていると思う。
戦況が大きく動いたのは、昼を過ぎてからだった。
関ヶ原の南西にある松尾山、そこに布陣していた小早川秀秋軍が動く。
味方であるはずの西軍を、いきなり攻撃したのだ。東軍に寝返ったのである。
その知らせを聞いた時、徳川家康は東軍の勝利を確信した。
あとは石田三成だ。
それについては、黒田長政が前もって策を巡らせている。石田三成が敗走する時に通るであろう山中には、すでに伏兵を潜ませていた。
小早川秀秋の裏切りによって、戦況が大きく動き始める。
岐阜城には次々と、東軍優勢の情報が飛び込んできた。
ただし、島津軍の奮戦ぶりも伝わってくる。東軍本陣にまで攻め込んできたとか。やはり、島津は侮れない。
また、大谷吉継が小早川秀秋の裏切りに、即座に対応したという。
もともと、その可能性を考えていたようだ。小早川秀秋軍の勢いを止めることに成功する。
しかし、それは一時的なものだった。
大谷吉継軍の兵が千五百なのに対して、小早川秀秋軍は一万五千だ。兵力の差は十倍。
その勢いを止め続けることはできなかった。
小早川秀秋軍が大谷吉継軍を撃破。さらに北へと進軍する。
西軍の敗色が濃厚となり、奮戦していた島津軍も退却を開始した。関ヶ原の南側へと急ぐ。
そこに東軍の武将たちが襲いかかった。
これにより、島津軍は甚大な被害を受ける。戦死者は多数。
だが、東軍にもかなりの被害を与えた。島津の壮絶な戦いぶりは、後世にまで語り継がれることになる。
こうして一六〇〇年、九月十五日。この一日だけで、関ヶ原の戦いは終わった。
東軍に捕らえられた石田三成は後日、京で処刑される。
そして年月は流れて・・・・・・。
一六一五年、豊臣秀頼のいる大阪城を、徳川家康の大軍が包囲していた。
豊臣家にとって、これが最後の戦いになるかもしれない。『大坂夏の陣』、開戦である。
大阪城を守る者たちの中には、真田幸村の姿もあった。
関ヶ原の戦いと同時期に、信州の上田城で東軍を苦しめた男だ。強い上に頭も良く、統率力もある。
あの時、真田幸村の行動によっては、東軍の補給線が寸断される、そんな可能性もあった。神出鬼没の騎馬隊は恐ろしい。
それに、もしもあの男が上杉景勝だけでなく、伊達政宗とも手を組んでいたなら、江戸陥落の危険もあり得た。
そうなっていれば、この徳川家康は今、ここにはいないだろう。
真田幸村、あの男は本当に強い。
徳川家康にとって、最後の強敵である。




