霜降(そうこう)
立花宗茂が島津軍の陣地を出立している頃、関ヶ原の南西にある松尾山では、一人の男が床に臥せていた。
小早川秀秋である。影武者ではなく、本物の方だ。
このことを知っているのは、小早川軍にあっても一部の者のみ。そんな者たちが全員、この場に集まっていた。
布団に横たわる優男。体の正面にできた傷は深刻だ。
奇襲してきた相手は、服部半蔵配下の忍者軍団だと思われる。
現場の状況から考えて、ほとんどの敵を討ち取ったようだが、それではまったく釣り合わない。
「俺はもう、長くはないようだ」
小早川秀秋の言葉は、はっきりしている。だが、その声はいつもよりも小さかった。
「だから、あとを任せたい」
優男の視線が、すぐそばの人物に向いた。
他の者たちの視線も続く。
視線の先にいる人物は狼狽していた。小早川秀秋の影武者だ。この視線が意味するものは何なのか、説明されなくてもわかっている。
――これから先は、お前が本物だ。小早川秀秋になれ。
幸か不幸か、もともと表に出ていたのは影武者の方だ。他の大名たちと顔を合わせても、変には思われないだろう。今までと同じだ。
小早川秀秋の秘密を知っている「太閤殿下(豊臣秀吉)」は、すでに亡くなっている。
もう一人、立花宗茂も秘密を知っているが、その口の堅さは信用していい。この秘密については、誰かに話したりはしないだろう。
なので、秘密は外には漏れない。今までと同じだ。そう、今までと・・・・・・。
「難しく考えるな。そして、一人で背負おうと思うな」
影武者に言う小早川秀秋。
布団の上から視線を周囲に一巡りさせると、
「皆がいる。わからないことは聞けばいい」
そのあと小早川秀秋は咳き込んだ。
部下たちは動揺する。この方はもう長くはないだろう。毅然と振る舞っているが、そこにある命の炎は小さくなってきている。
咳が落ち着いたところで、
「例の話を」
視線を天井に向けたまま、小早川秀秋はつぶやく。腹心の一人に向けた言葉だ。
今は戦国の世。もしもの時に備えて、事前に決めていたことがある。
「皆に伝えろ」
その額には脂汗がにじんでいた。
「御意にございます」
最も高齢の腹心が皆に語り出す。
今後の小早川家のことだ。基本方針として、家門の存続を第一に考えるべし。
さしあたって、近日中に始まるであろう天下分け目の戦い、これをどう乗り切るか。
「まずは動くな」
小早川秀秋は布団の上から命令する。
「それで勝てる」
断言した。
先ほどの腹心が補足する。
ここ関ヶ原での布陣において、小早川秀秋は何の考えもなく、南西の松尾山を選んだのではない。
景観を重視した。この場所からなら、西軍と東軍との戦いでどちらが優勢なのか、それを見極めることができる。
小早川秀秋の軍は西軍第二の大兵力だ。兵の数は「一万五千」。
この大兵力で、東軍だろうが西軍だろうが、その側面をつくことが可能だ。戦いの行方を決める一撃になるだろう。
つまり、この戦いにおいて、小早川家は他の多くの大名家とは違い、勝利を確約されているようなものだ。自分たちが味方した方が必ず勝つ。
そんな絶好の位置に布陣しているのだから、焦る必要はない。ただ待つだけでいい。
そして、戦況を見極めてから動く。それで勝てるのだ。優勢な方に味方すれば、自軍の被害を抑えることができる。
「小早川家のことを頼んだぞ」
このあと、影武者に対して一つ助言をする。
「気楽にな」
これが小早川秀秋の最期の言葉になった。辞世の句はなし。布団の上で、穏やかな表情をしていた。
小早川家は有能な主君を失ったのである。
布団の周囲で部下たちは泣いた。小早川秀秋の影武者も例外ではなかった。




