穀雨(こくう)
関ヶ原の狼煙や土煙は、かなり晴れてきていた。
これから始まる一騎討ち、本多忠勝対トラカド。それに西軍の多くの目が集まってきている。
先に動いたのはトラカドだった。相手の胴を突き刺そうとする攻撃だ。
ミササギは思わず目を見張る。今の攻撃、速さも威力もなかなかのものだ。
しかし、防がれてしまう。
しかも、本多忠勝は自らの槍を使っていない。トラカドが繰り出した槍、その柄を片手で叩いたのだ。いとも簡単に。
それで槍先の軌道が変わった。トラカドの槍は空気だけを貫く。
「悪くない。だが、まだ若いな」
本多忠勝の声に、トラカドを茶化す感じはなかった。
逆だ。少々の殺気をはらんでいる。
「地獄で修行してくるか?」
これは警告だ。わざわざ口に出しているのは、今なら見逃してやるということ。素直に退けば、命はとらない。しかし、なおも向かってくるようなら・・・・・・。
ミササギの首筋に冷や汗が流れる。
先ほどから密かに、「自分だったらどう戦うか」を頭の中で考えていたのだ。
その相手が「トラカド」なら、まだ戦いようがある。
しかし、相手が「本多忠勝」となると・・・・・・。
(これほどとは)
さすが東軍最強の男だ。ミササギは戦慄する。頭の中の自分は、屍と化していた。
――ここは退きなさい!
そんな言葉が口から出かかるものの、何とかこらえる。言ったところで、トラカドは退かないだろう。
それどころか、逆効果にもなりかねない。他者から言われたばかりに、退けなくなってしまうこともある。意地が邪魔をするのだ。
ミササギは自分が助太刀することも考えた。
だが、トラカドと二人がかりでも、本多忠勝には勝てる気がしない。頭の中ではすでに、屍が二つ完成している。
その時、歌が聞こえてきた。
トラカドが口ずさんでいる。そうしながら槍を構え直していた。
少しして歌がやむ。
そのあとの静寂は、一瞬もなかった。
トラカドが再び仕掛けたのだ。
先ほどよりも速く、先ほどよりも威力のある攻撃を。
しかも、連続で。
本多忠勝が今度は槍を使って、トラカドの攻撃を次々とさばいていく。
槍と槍とが、一瞬一瞬の間に激しくぶつかり合っている。
一見すると、互角のようだ。
が、ミササギにはわかる。本多忠勝は今だけ、トラカドの技量に合わせているのだ。
要するに値踏み。どのくらいの強さかを知ろうとしている。
すぐに本多忠勝の動きが若干速くなった。
まだトラカドは普通に戦えているようだが、ミササギは気づく。
ほんのわずかにではあるものの、トラカドの槍が震えているのだ。槍と槍とがぶつかり合う衝撃を、完全には受け流しきれていない。この勝負、一撃一撃の重さでは、本多忠勝の方が上。
(トラカドはもっと槍を強く握った方がいい)
そう思う一方で、
(これは何かを狙っている?)
わざと武器の握りを緩くしている可能性もあった。
この直後にトラカドが、これまでとは違う行動に出た。
片方の手で槍を緩く握ったまま、もう片方の手を使って素早く、槍の柄を回し始める。そうすることで、槍に錐のような回転を付与した。
ここでトラカドの呼吸が、一瞬だけ深くなる。
そして、渾身の一撃を放った。
回転する槍先が、本多忠勝に向かっていく。速さも威力も、これまでとは段違いだ。
(トラカドはこれを狙っていた)
ミササギは息をのむ。
おそらく必殺の奥義だ。初見で対処できる者は、ごくわずかだろう。
(しかし・・・・・・)
やはり相手は怪物だ。
本多忠勝は上体を反らして、必殺の一撃をやり過ごしている。
トラカドの呼吸が変化した、その一瞬を見逃さなかったのだ。奥の手を出してくることを察知して、回避のみに専念したのだろう。
もっと呼吸が浅ければ、少しは不意を突けたかもしれない。その場合、もしかしたらトラカドが勝っていたかも。
いや、相手は東軍最強の男。そう甘くはないか。
呼吸が浅ければ、あの技の威力は落ちていただろう。そんな威力では、本多忠勝には通用しない。
トラカドの手から槍がすっぽ抜けて、前方へと飛んでいった。そこには誰もいない。奥義は不発。
しかも、今の攻撃の失敗によって、本人は前のめりの姿勢になっている。あれでは無防備だ。
片や、本多忠勝は身を少しのけ反らせただけ。
で、すでに反撃の構えをとっている。
「悪くない腕だが、退場願おう」
トラカドの頭目がけて、槍をふり下ろしてくる。脳天を突き刺すのではなく、叩き割る気だ。




