啓蟄(けいちつ)
「小西行長の陣に、東軍の騎馬隊が突撃しました!」
部下からの報告に、島津義弘はまったく動じなかった。
相手が素直にやって来るとは、最初から思っていない。
先ほどから関ヶ原の四方で、次々と狼煙が上がっている。
また、関ヶ原の南西にある松尾山では、小早川秀秋軍が敵の奇襲を受けているらしい、とも聞いている。
あの方角からは現在、黒い煙も上がっている。あれは狼煙ではない。敵の忍者が兵糧にでも火をつけたか。
そして、この陣のすぐ隣にある「小西行長の陣」にたった今、東軍の騎馬隊が突撃したのだ。
その進入角度を頭の中で再現して、島津義弘は相手の意図に気づく。
東軍の騎馬隊には、小西行長軍を蹂躙するつもりはない。
はんぺんの角だけをかじる、とでも表現しようか。小西行長軍の陣地の角を、ななめに少し通過するだけだ。
その先にあるのが、ここ島津軍の陣地。
(正面からではなく、側面から来たか)
東軍の目的は「家康の奪還」なので、小西行長にしてみれば災難だろう。
(さて、どう考えた)
島津からの提案を、東軍はどう考えたのか。
協力か、決裂か。
その答えが、これから出る。
自軍の兵たちが大声を上げ始めた。
東軍の騎馬隊が侵入してきた地点からは、次々と煙が上がっている。
その煙の中から、刃物同士のぶつかり合う音が聞こえてきた。
「東軍の奴らだ、斬れ!」
「西軍の雑兵に構うな。馬の足を止めずに、一気に駆け抜けろ!」
そんな声が聞こえてくる。
何が起きているのか、島津義弘は瞬時にわかった。
(なるほど)
協力か、決裂か。その答えが出た。
ここで島津義弘は兵の配置を変える。島津軍の陣内に響き渡る太鼓の音。力強い合図に兵たちが走る。
侵入してきた騎馬隊に対して、島津軍の布陣は今や「凹」型。相手の正面を塞ぎ、左右から包み込もうとする陣形だ。
このようにして、じわじわと距離を詰めていく。
島津義弘も前へと出た。
東軍の騎馬隊が見える。数は百に満たない。その馬の多くが足を止めている。
騎馬隊の強みである「突進力」は、完全に削いだ。いや、相手の方からわざと、そうしたのだろう。
特徴的な兜の男が、騎馬隊の先頭にいた。本多忠勝である。
騎馬隊の周囲には、狼煙用の松明がいくつも散らばっていた。陣内にあった「かがり火」もことごとく倒されている。
今や大量の煙が、騎馬隊の周囲に壁をつくっていた。
そのため、島津義弘がいる方向からでないと、東軍の姿を目視できない。
なおも刃物同士のぶつかる音が続いている。島津の兵たちがそれぞれの武器をぶつけ合って、そういう音を出しているのだ。
この場で今、実際に敵と戦っている者はいない。
「敵だ、斬れ!」
などの声も偽物だ。
もちろん、あの煙の壁も作為によるもの。
ここにいる両軍とも、相手と戦う気はなかった。
もしも他の西軍武将たちが慎重に、ここの音や声を聞いていれば、そのことがわかるだろう。
だから、時間をかけるわけにはいかなかった。
他の西軍武将たちに気づかれては、面倒なことになる。この陣には今、島左近配下のトラカドもいるし、さっさと用事を済ませるに限る。
老武将が丸腰で本多忠勝に近づいた。
本多忠勝と少し話したあとで、その部下から桶を受け取っている。
すぐに桶の中を確認する老武将。
そこで不意に、動きを止めた。




