夢浮橋(ゆめのうきはし)
立花宗茂が小早川秀秋と別れて、単独行動を始めた時、他の西軍武将たちは遠くの空に目を向けていた。
関ヶ原の北と東で、狼煙が上がったのだ。あれはどう考えても、東軍の仕業。
とはいえ、まだ敵兵の姿が見えたわけではない。
なので、西軍武将の多くが様子見を選択する。徳川家康らしき男が現れた時と違って、誰も自軍の兵を確認に向かわせようとはしなかった。
すると今度は、関ヶ原の「西」でも狼煙が上がる。しかも、複数の地点からだ。
――自分たちの背後に東軍がいる?
西軍武将たちは警戒を強めた。
しかし、狼煙を上げるだけなら、多くの兵を必要とはしない。東軍には服部半蔵の忍者軍団がいるのだ。あのくらいの工作なら、忍者が数人いれば可能だろう。
だが、ここで気になるのが、先ほどの「徳川家康らしき男」だ。
あれが関ヶ原に登場した時、西軍全体の目が一点に引きつけられた。
――その隙に、背後に回り込まれたのかも。
あり得ない話ではなかった。
西軍武将たちは不安になってくる。自分たちの背後にいるのは、「数人の忍者」ではなく、本多忠勝か井伊直政が率いる「精鋭部隊」の可能性も・・・・・・。
そんな味方の動揺に気づいて、一人の西軍武将が動いた。
大谷吉継である。白い覆面をした人物だ。
自軍の兵力は千五百で、島津軍よりやや少ない程度。小早川軍の十分の一だ。
大谷吉継はまず、五百の兵に命じる。
「西の狼煙が上がっている場所、そのすべてに今すぐ急行せよ」
と同時に、百人の使者も放つ。大谷軍の兵たちが西の狼煙、その現場の確認に向かったことを、他の西軍武将たちに伝えるのだ。
各陣地への移動中にも叫ばせれば、末端の兵たちにも情報が素早く伝わる。そのための百人だ。声は大きい方がいい。
西の調査に五百、他の西軍武将たちへの使者に百。自陣の守りは緩くなったが、こうすることで西軍の動揺を抑えにかかる。
(だが、これで終わりとは思えぬ)
東軍には服部半蔵や黒田長政がいるのだ。
(まだ何か仕掛けてくるはず)
この陽動、真の狙いは何なのか。
大谷吉継は少し考えてから、追加の指示を出す。
目の良い者たちに、関ヶ原の「東側」を見張らせた。東軍が関ヶ原に侵入してくるとしたら、その方角が一番あり得る。
さらに他の部下たちに、関ヶ原の「南側」も警戒するよう伝えた。
狼煙が上がったのは、北、東、西の順番だった。
となると、次は「南」だろう。
(そして、重要なのはそのあとだ)
もしも東軍が、関ヶ原の「東」から侵入してくるつもりなら、最後は他の方角――北か、南か、西か――に西軍の目を向けさせたいはず。
西にはすでに、大谷軍の兵を向かわせている。ある程度までの不測の事態には、それで対処できるだろう。
あとは、北と南。
その二つも大谷軍で対処する、というのはさすがに無理だ。
西軍全体の布陣状況から考えて、北については島左近に、南については小早川秀秋に期待することになるだろう。
島左近には西軍屈指の知恵があり、小早川秀秋には西軍屈指の兵数がある。
あの二人がうまく動いてくれれば、他の西軍武将たちは「東」だけに集中することができる。かなり戦いやすくなるはずだ。
しばらくして、部下の一人が報告してくる。
「関ヶ原の南側で狼煙が上がりました」
やはりか。南の空に大谷吉継も目を向ける。たしかに狼煙が上がっていた。
さらに別の報告が届く。
「関ヶ原の南西でも狼煙が上がりました。松尾山の辺りです」
松尾山? それは予想していなかった。
あそこには小早川秀秋の陣があるが・・・・・・。
大谷吉継は少しの間、無言で南西の空をじっと見てから、
「あれは、狼煙だけではないな」
これまでの狼煙と違って、あの狼煙には他の煙も混ざっている。それに、鳥の群れが逃げていく数も、はっきりと多い。
この時、小早川秀秋のいる松尾山では、火の手が上がっていた。
服部半蔵率いる忍者軍団の仕業だ。小早川秀秋の陣を奇襲したのである。
今回の作戦に加わっている忍者の数は、およそ五〇。
一方で、小早川秀秋軍の兵は一万五千だ。
これほどの差があっては、奇襲で勝負に出るしかない。服部半蔵自らも、この死線に身を投じている。
関ヶ原の南西にある松尾山が、一気に慌ただしくなった。




