夕顔(ゆうがお)
「家康公とお見受けしましたが」
ミササギが再び言ってくる。
「・・・・・・人違いです」
「なるほど、そうきますか。家康公は冗談がお好きなようですね」
にこりともせずに、ミササギが片手を小さく挙げた。自分の部下たちに合図を送る。
すると、家康の周囲にいる騎馬隊が輪を狭めてきた。
ミササギの騎馬隊だけでなく、それに合わせて、トラカドの騎馬隊も動く。
家康の背に冷や汗が流れた。
多勢に無勢。これは本当に逃げられない。いよいよもって、年貢の納め時か。
急いで辞世の句を考えるが、焦りすぎて良い言葉が浮かんでこない。
代わりに浮かんできたのは、近い将来の自分の姿だ。京都の河原で、「けじめー!」と叫びながら切腹する姿。もちろん髪型は、落ち武者スタイルである。
あきらめたくはないが、さすがにこの状況では無理か。逃走は不可能に思える。
西軍の毛利輝元や石田三成に、今になって「ごめんね♪」と言っても、通用しないだろうし・・・・・・。
でも、まだ死にたくないので、
(誰でもいいから、助けにきてくれー!)
心の中で本気で叫ぶ。理想は本多忠勝だ。こういう場面では、強い男の方がいい。あいつは東軍最強だ。
(頼む忠勝、助けにきてくれー! この家康、大ピンチ中ー!)
さらに騎馬隊が輪を狭めてくる。「ジ・切腹」確定まで、あとわずか。
ところが、その時だ。輪の一部で驚きの声が上がる。
「うおっ!」
声の方に目をやると、一頭の馬とそれに乗っている男が、地面にのみこまれていくところだった。
なぜか、そこに落とし穴があったらしい。
この瞬間、その場所に隙間ができる。
家康はこの好機を見逃さない。その隙間に向かって、すぐさま馬を走らせた。
いつ来るかわからない味方を、当てにはしない。自分の力で道を切り開く!
両側から素早く伸びてくる敵の腕、腕、腕。
それらを力ずくで振り切りながら、勢いに任せて突破する。
そして、抜けた! 包囲網を抜けた!
思わずにやける家康。
(まだ運はある! 天は自分を見捨てていない!)
しかし、その直後だった。
「うおっ!」
突然、真下に落ちる感覚が襲ってくる。
しまった! ここにも落とし穴だ!
またたく間に穴の周りを、騎馬隊に取り囲まれてしまう。
(くそ、この落とし穴さえなければ・・・・・・)
口に入った土を吐き捨てると、家康は穴の中から、恨みの視線を騎馬隊に向けた。
かつて武田信玄に敗れたことがあるが、その時のことを思い出す。あの時と同じような、完全なる敗北感。
こんな場所に穴を掘るとは、さぞや名のある知将か軍師の仕業に違いない。
島左近あたりの指示か? 奴の配下のトラカドが、一番に駆けつけてきたし・・・・・・。
「天命尽きたようだな、家康公。さて、このあとどうしようか」
トラカドが不敵な笑みを浮かべている。