総角(あげまき)
井伊直政が騎馬隊と共に、城を出陣していってから、少し時間が経った頃。
関ヶ原の「北」で狼煙が上がった。
服部半蔵はそれを、走る馬の上から確認していた。
このあと、関ヶ原の「東」でも狼煙が上がる。
さらには関ヶ原の「西」からもだ。こちらは複数地点。
これらの狼煙、服部半蔵が部下に命じてやらせている。すべて陽動だ。こうすることで、少しでも西軍を攪乱する。
北・東・西とくれば、あとは「南」だ。
そこは今すぐにではなく、いくらか時間をあける。
というのも、服部半蔵率いる忍者部隊は現在、関ヶ原のかなり南側を移動中だ。目的の地点へと急行していた。
関ヶ原の「南」で狼煙を上げるのは、自分たちがここを通り過ぎたあと、少し経ってからの方が都合がいい。
関ヶ原やその周辺に分散して各種任務にあたっていた忍者たちが、次々と合流してくる。今や五〇人を超える集団へと成長していた。
その中にはレンゲの姿もある。一旦は島津軍に捕縛されながらも、解放されて戻ってきた女忍者だ。
もしも彼女が島津に取り込まれているなら、いつ裏切るか、わかったものではない。
だから、服部半蔵は警戒していた。レンゲには見張りをつけている。戦闘に長けた忍者が二人だ。
さらに、「手裏剣」や「苦無」などの飛び道具一式を、彼女から没収している。
その一方で服部半蔵は、こうも考えていた。
――レンゲが裏切る可能性は極めて低い。
これは直感だ。しかし、こういう直感は過去、それなりに当たってきた。
なので、今の彼女は上半身を縄で縛られてはいない。両手を自由に使うことができる。
飛び道具一式は没収したが、忍者刀は没収していない。見張りをつけてはいるものの、もしもの時には貴重な戦力として期待していた。
というのも、西軍の知将・島左近の策によって、味方にかなりの被害が出ている。今は忍者が一人でも多く必要だ。
そして、レンゲが二重間諜になっていないなら、これは彼女自ら、無実を証明する機会にもなる。
(さて、西軍に捕らわれている殿の救出作戦だが)
島津義弘の提案が罠ではないとしても、非常に困難なものになるだろう。殿を救出して、関ヶ原を脱出するのだ。
西軍は確実に追撃してくる。
そんな状態で、黒田長政たちが布陣している地点まで逃げきるのだ。予想される味方の被害は決して小さなものではない。
だが、それでもやり遂げなければならなかった。なにせ殿は東軍の総大将だ。
服部半蔵は思考の合間に、大きく息を吐く。考えることが多くて大変だ。
こうしている間も馬は走り続けている。
目的の地点に着くのは、もうしばらく先だ。先行させている忍者部隊もまだ、そこには到着していないと思う。
ならば、今の内にいくらか頭を整理しておくか。もう少ししたら、そんな時間をとることはできなくなる。
特に、島津義弘からの書状について。
あの内容はすべて頭に入っている。
島津義弘は首を一つ要求してきた。
これは理解できるし、そっちの判断については黒田長政に任せている。
自分が考えるべきは、もう一つの件だ。
(『信玄密書』なるものが、本当に存在するのか?)
甲斐の武田信玄と言えば、偉大な戦国大名の一人だ。上杉謙信との川中島の戦いは名高い。
徳川軍もかつて武田信玄と戦ったことがある。そして、敗れた。一五七二年に起きた、三方ヶ原の戦いだ。
しかし、武田信玄はすでに、この世の者ではない。亡くなって三〇年近くが経っている。
なのに、なぜ今なのか。
それを知ろうとして、島津義弘はこちらに、その情報を流してきたと思う。
三方ヶ原の戦いで武田信玄は徳川家康を討った。つまりは殺した。証拠の首も確認したという。
そのように、『信玄密書』には書かれているらしい。




