空蝉(うつせみ)
家康は自分の馬に回れ右をさせようとした。のんびりしていては敵の餌食になる。
この時、目の端にわずかな異変を感じた。
西軍全体に目立った動きはない。
しかし、自分の勘が告げている。危機が迫っている、と。
すぐさま馬を反転させる。
ところが、その視界に飛び込んできたのは、こちらに向かってくる騎馬の群れだった。
味方であることを強く期待したが、現実は悲しい。
敵の騎馬隊だ。気配を消して、後方から回り込んできたらしい。
かなりの窮地ではあるが、家康は少しでも前向きに考えようとする。
相手の数はせいぜい十。弓や鉄砲を持っている者はいないようだ。
馬の速さ勝負にでも持ち込めば、この全員を振り切ることは、決して不可能ではないはず。
であれば、その考えを今すぐ実行に移すべきだろう。
馬に再び回れ右をさせた。
が、そっちにも別の騎馬隊がいる。こっちに向かってきていた。
前方には騎馬隊。後方にも騎馬隊。
この二つの騎馬隊、旗指物がそれぞれ違う。別々の主君に仕えているのだ。
前後から挟まれて、家康は本気で焦った。
横から逃げようとするが、先に現れた騎馬隊が、回り込んでくる。
予想以上に動きが速い。またたく間に包囲されてしまった。
さらに、あとから現れた騎馬隊が、その周りを取り囲んでくる。こちらの方が数は多い。およそ三百。
絶体絶命の状況だ。
いや、しかし、こちらの正体がばれていない可能性も少しは・・・・・・。
騎馬隊の中から、指揮官らしい若い男が前に出てくる。
「家康公とお見受けするが」
やばい。普通にばれている。
「・・・・・・」
さすがに、「いかにも」とか、「そうじゃ。余が家康じゃ」とか、そういう言葉を返す気にはならなかった。
次の瞬間、「家康、覚悟!」とか、「辞世の句を詠む間だけ待ってやる」とか、そんな展開になりそうな気がする。
まだ死にたくはない。せっかくここまで頑張ってきたのだ。生きて天下を統一したい。
(どうにかして、この場を切り抜けないと)
しかし、この若い男には見覚えがある。
西軍きっての頭脳と称される「島左近」、その部下だ。名はたしか「トラカド」。
この若さで、あの「知将・島左近」の信頼を得ているわけだから、ただの猪武者ではない。
自分の側近の一人、「黒田長政」も前に褒めていたっけ。ああいう若者を部下に欲しいと言っていた。
(まずいな)
さらに、もう一人。こちらも口を開く。
「家康公とお見受けしましたが」
あとから向かってきた騎馬隊、それを率いているのは若い女性だ。
彼女も見覚えがある。島津の「ミササギ」。
この若さで、「猛将・島津義弘」の信頼を得ているわけだから、ただの女武者ではない。
自分の側近の一人、「本多忠勝」が前に褒めていたっけ。ああいう若者を部下に欲しいと言っていた。
まずい二人と出くわしたものだ。
どこかに突破口はないか、家康は頭と目を全力活用して探す。