藤裏葉(ふじのうらば)
関ヶ原の南西にある松尾山。
そこから関ヶ原を見下ろしている人物がいた。
黒い覆面をしているので、その正体は不明だ。
少し離れた場所からは、いくつもの視線を感じる。
だが、覆面の人物はそれらの視線を気にしていなかった。こういう視線を向けられるのも、当然だろうと思っている。
しばらくして、急に背後で足音がした。
覆面の人物は動じない。
(この気配は――)
相手が誰かは瞬時にわかった。
敵ではない。
だから、武器の槍を突き出す理由もなかった。
背後から現れたのは、一人の優男だ。
「面白いものでも見えるかい?」
親しげに声をかけてくる。
「そこまで面白いものは、まだだな。しかし、間もなく見ることができると思う」
覆面の人物と優男、二人の格好は対照的だった。片や山賊、片や大名。
とはいえ、よくよく見れば山賊っぽい方も、兜や具足はそれなりに質の良いものを使っている。
しかしながら、兜と具足の両方とも、かなり使い込まれていた。そのため、質の良さが目立ちにくく、覆面や毛皮などの山賊っぽい雰囲気の方に、飲み込まれてしまっている。
ただし、手にしている槍だけは別格だった。これほどの槍は、この戦国の世でもなかなか手に入らない。全体の雰囲気の中で、異彩を放っている。
覆面の人物も、これを持っていくことにはこだわった。いくら正体を隠したいと思っていても、さすがに武器は妥協できない。
周囲からくる視線も、この槍にばかり集中していた。
そんな視線を無視して、覆面の人物はまたもや関ヶ原をゆっくりと見回す。
「それにしても、本当に良い場所に布陣したな」
素直な感想を口にする。
「狭い場所は嫌だと少しごねたら、こうなった」
優男が冗談めかして言う。
ここ松尾山にいる兵の数は「一万五千」だ。
そして、西軍の中央に布陣している宇喜多秀家の兵が「一万七千」である。
ちなみに、石田三成の兵と島左近の兵を合わせても、「五千八百」だ。
また、島津義弘の兵が「千六百」で、大谷吉継の兵は「千五百」でしかない。
つまり、ここ松尾山にいる「一万五千」は、西軍第二の大兵力だ。
それをを率いるのが、この優男。
小早川秀秋である。
「旅も戦も景観を軽視はしない。それが人生を楽しむコツだと思っている」
優男が言うと、
「ここは本当に良い場所だ。石田三成の陣から、かなり離れているのもいい。さまざまな局面に対応できそうだ」
小さく笑う覆面の人物。
さらに続けて、
「選択肢が多いのは良いことだ。特に戦場においては。選択肢が少なければ、それだけ窮屈な戦いを強いられる」
関ヶ原を見下ろしながら、覆面の人物は考える。
自分は本来、ここには「いない」はずだった。別の場所にいることになっている。
なので、あの口うるさい石田三成あたりに見つかっては、何かと面倒なことになりそうだ。
ここに来る少し前にも、関ヶ原の「北西」にある伊吹山、その近くの竹林で、四人の忍者たちと遭遇した。
あそこは石田三成の本陣に近い。あの四人はおそらく、三成の配下だろう。
それで素早く全員を仕留めた。一人でも逃すと、面倒なことになりかねない。
そのあとは関ヶ原の西側を大きく迂回してきた。大谷吉継軍がいる陣の後方を通り、ここ松尾山にたどり着いている。
小早川秀秋とは、「太閤殿下(豊臣秀吉)」が存命の頃からの知り合いだ。
ある秘密を共有する関係なので、それを今回利用させてもらった。こうして匿ってもらっている。
そうだ。自分は本来、ここ関ヶ原には「いない」はず。近江の大津城を攻めていることになっているのだ。
立花宗茂。
それが、この覆面の下にある正体だ。




