澪標(みおつくし)
その頃、島津の陣に家康はいた。
囚われの身である。乗っていた馬は当然として、兜も具足も刀も没収されていた。あれ全部、かなり高かったのに・・・・・・。
今は縄で縛られていないものの、急ごしらえの檻の中に入れられている。
檻の周りは、檻から一メートルくらいの間をあけて、「幕を張りつけた柵」で囲われていた。
おかげで、島津の兵たちの見世物にはなっていない。幕の外から、数人のひそひそ声が聞こえてくる程度だ。
とはいえ、幕の内側には見張りの兵たちがいて、無表情を並べている。孤独を楽しめる環境ではない。
家康はミササギとトラカドのやり取りを思い出していた。
――こちらとしては、その家康公を生きたまま捕らえたいのです。
――それはあなたの意思か? それとも島津公の?
――私の意思ですが、我が殿も同じお考えでしょう。
どうやら、あれは本当らしい。すぐに殺されることはなさそうだ。
殺すつもりなら、すでに髪型は落ち武者カットにされているはず。白装束を着せられているだろうし、筵か地べたに座らされているに違いない。
あと、坊さんがやって来て、「このたびは非常に残念なことになりましたが、気を落とさずに。来世に向けて希望を持って」などと、一足先に供養の念仏を唱えていくこともなかった。
今のところは、だが。
島津軍の大将・島津義弘は、何を考えているのやら。ただの猛将ではないと思っていたが、やはり簡単に気を許せる相手ではない。
そして、家康が今考えるべきことは、他にもある。
(さて、ここはどうしたものか)
眼前の問題に対して、思考をめぐらせる。
いくつかの可能性。さらに、その先を少し長めに読む。
それから意を決して、
「この局面、こうするのが得策か」
檻の隙間から腕を伸ばすと、そこに置いてある将棋盤の上で、駒の一つを進める。
「ほう。悪くない手ですな」
将棋盤の向こう側にいるのは、島津の老武将だ。
先ほどから家康と将棋を指している。
その勝敗で賭けをしていた。
家康が勝てば、捕虜としての扱いが良くなる。
すでに二勝しており、「畳一枚」と、「座布団一枚に椅子一つ」を受け取っていた。
で、今回の対局で家康は、「お風呂」を所望している。冗談半分に言ってみたのだ。どこまで要望が受け入れられるのか、という実験も兼ねていた。
いくら何でも、お風呂は無理だろう。そう思っていたのだが、問題ないと返ってきた。
もしやと思い、先に予防線を張っておく。
「お風呂と言っても、『釜茹で』というのは、なしの方向で」
あれは快適さとは無縁だ。自分で試したことはないが、想像するだけでわかる。
すると、老武将は自分の膝を軽く打って、
「なるほど! そういう手もあるな!」
冗談(だよね?)を返してくる。なかなかお茶目なジジイだ。釜茹でにしてやりたい。
なお、この将棋に家康が負けた場合は、捕虜としての待遇が悪くなる。