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【3分で読める怪談】一度きり(女性)

作者: 薫 サバタイス





その男とは一度きりのつもりだった。


深夜のスーパーで、声をかけてきた男。


彩子はフルーツを買おうとしていた。


IT企業で働く彼女は、どちらかと言うと、朝が苦手。


ただ朝食は食べないまでも、フルーツは口に入れるようにしている。


先週はシャイン・マスカットだったから、今週はグレープフルーツにしようかな。


そんなことを考えながら、フルーツ売場を何となく眺めていたときだった。


「かわいいですね」


「はい?」


「いや、あなたじゃなくて、そのグレープフルーツ。ピンクがかってて、シナモンみたいだ。『シナモン』って知ってます? キャラクターの。オレ、見た目によらず、シナモン・グッズ集めてて……」


スラリとした体。


肌がキレイ。


悪くはない。


一瞬だけ、そう思った。


男は聞かれもしないのに、まるで空気の読めない美容師のように話しかけてきた。


深夜のスーパーとはいえ、会社帰りのサラリーマンやOL、学生カップルなどが買物中だ。


周りを気にせずナンパする男を、不審げにチラチラ見ている。


当然、ナンパされている彩子の方も。


「お店の中で、やめてください」


彩子がか細い声で言うと、男はこう切り返してきた。


「だったら外へ行きましょ。お茶でも飲みませんか?」


男についていったのは、スーパーというごくごくありふれた空間で、極めて非常識な誘い方をされたからだろうか。


お茶のつもりだったが、彩子はいつのまにかアルコールを頼んでいた。


自宅へ招いたのは、むしろ彩子の方。


もちろん一度きり。


男自身、こう言っていた。


「オレは彼女を作る気はない。付き合っても、どうせ悲しませちまうし。お互いにいいと思った。それだけでいいじゃん」


だから男が帰ったあと、彩子はLINEをブロックした。


しかし、3日後。


駅の改札を出て、横断歩道で信号待ちをしているときに、また会った。


待ち伏せしていたのか、とは聞けなかった。


男は前回と同じようにペラペラしゃべり、彩子も平然と返した。


その夜、彩子は思いがけない言葉を聞く。


「ちゃんと付き合いたい。彼女になってくれ。『Yes』は?」


「考えとく」


こぼれそうになる笑みを、彩子は懸命にこらえた。


沼ったのは、いつまでも「Yes」の返事をしなかったからかもしれない。


はたから見れば完全に付き合っていたが、彩子は「こいつは彼氏ではない」と何度も自分に言い聞かせた。


そうすると、なぜか興奮した。


激しいケンカをしたあとも、いつも興奮する。


彩子は自分の言い分が認められないとかんしゃくを起こし、しょっちゅう家を飛び出した。


期待に反し、たいていの場合、男に放っておかれた。


わめきながら戻ると、いきなりベッドに押し倒され、口をふさがれた。


物理的な意味でも、別の意味でも。


男の胸の下で感じたもの。


彩子はそれを愛だと感じた。


ほころびが生じたのは、男に「おろせ」と言われたとき。


彩子も覚悟はしていたつもりだったが、実際に体内に生命を宿すとあきらめきれなかった。


なんとかして男に「Yes」を言わせようとした。


しかし男は、最後までその言葉を吐かなかった。


中絶。


男は付きそいもしなかったし、金も出さなかった。


それでもいい。


彩子はそう思っていた。


だが手術が終わり、医者にどうしてもと頼みこんで、ビニール袋に入った胎児を見せてもらったとき、自分でも気づかないうちに「違う! 違う!」と叫んでいた。


別の展開もありえたかもしれない。


もし男が彼女に寄りそっていたら。


しかし、男は離れていこうとした。


その、ほんのわずかな最初の気配を感じとったときに、彩子の心にわき上がったもの。


奇妙なことだが、それは「独占欲」と呼べるものだったかもしれない。


1日、連絡がとれない。


3日、連絡がとれない。


5日、連絡がとれない。


1週間、連絡がとれない。


自宅へ押しかけ、インターホンを連打する。


それでも、出てこない。


朝まで待って、出勤する男をマンション前でつかまえた。


横には、見知らぬ若い女。


男はコソコソするどころか、彩子へ罵声をあびせ、アスファルトの上を引きずりまわした。


道端でハッと目が覚めたとき、男はもういなかった。


彩子は血だらけの足で電車に乗り、男の職場である高層ビルへ向かった。


血のついた服を着て、髪を振り乱した女がエントランスから走りこんできたのを見て、ギョッとしたサラリーマンもいたに違いない。


高速エレベーターが51階に着き、ドアが開く。


彩子の手に握られていたのは、刃渡り20cmの包丁。


男へ料理を作ってあげようと買いこみ、一度も使われることなくしまわれていたもの。


昨晩、家を出るときバッグへ入れた。


暴力を振るわれるかもしれなかったから。


実際、彩子は血だらけになっている。


今こそ使え。


おろしたての包丁を。


彩子はどこか現実味のない意識のまま、フロアを走り回り、男を見つけ出した。


はるか下からサイレン音がかすかに響く中、その尖った先が男の胸に突き刺さった。












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