55.エトランジェ
精神支配能力者を銀の国へ帰らせると聞いたミリアムは、衝撃を受け、冷静さを欠いてしまう。そんな彼女の心を落ち着かせようと、パンは言葉を発する。
「待ってくれ、待ってくれ! ミリアムさん! まずは話を聞いてくれよ」
パンのその発言によって、ミリアムは冷静さを少しだけ取り戻す。
「あ……えぇ。そうね。ごめんなさい。聞くわ」
ミリアムは改めてパンの顔へと視線を向ける。そして、強張ってはいないが真剣さを欠いてもいない表情で、パンの言葉を待つ。
「宣誓書を書かせたんだ。もう二度とエトランジェに危害を加えない、っていうな。だから心配しなくて大丈夫だ」
「またサインさせるパターン!?」
「あぁそうだ。それで解放した」
「そう。パンはサインさせるのが好きね」
セシリアが相手の時もそうだった。書類にサインをさせていた。それゆえミリアムは知っている、パンがサインさせることが好きであることを。もっとも、ミリアムはサインをさせる云々にはあまり興味がないのだけれど。
「効率が良いし、便利だからな」
「それもそうね……。でも、私にはそのアイデアはなかったわ」
「ま、いいんじゃないか。人それぞれで」
「えぇ。その通りだわ」
ミリアムは最初、精神支配能力者を手放した理由が理解できなかった。そして今も、まだ完全には理解しきれていない。が、逃したことにパンが納得しているということだけはしっかり分かった。ここの責任者的立場である彼が納得しているというのなら、それはそれで良いのかもしれない——ミリアムはそんな風に考えることにした。
◆
今日のところは特に用はない、とのことで、ミリアムはパンのもとから去ることになった。
本当は次の任務があれば良かった。そうすれば、深く考えずその任務につくことができたから。それがミリアムにとっての理想だった。けれども現実は思い通りにはならず、何もすることがない状況へと追い込まれてしまう。
パンの部屋を出たミリアムは、あてもなく廊下を歩く。
ロゼットもそれに付き添っている。
「ねぇロゼット。今日はこれからどうするの?」
ミリアムは何となく尋ねてみた。
そこに深い意味なんてものは存在しない。気になったから尋ねた、ただそれだけだ。どうでもいい会話、というやつである。
「どうする、とは?」
エトランジェに来てから何度も負傷していたロゼットだが、今はすっかり元気だ。傷跡が消え去るところまで治癒したかどうかはミリアムには分からないが、見た感じ弱っている雰囲気はない。健康体そのものに見える。
「これから何か仕事があるのかなーって。ふと気になったのよ」
「そうでしたか。で、仕事ですが、特にはありません」
ミリアムは静かに唇を噛む。
それから少しして、そっと口を開いた。
「じゃあどこかへ行かない?」
その言葉を述べる直前、ミリアムはあり得ないくらい緊張していた。胸の痛みを感じるくらいに。しかもそれだけではない。全身の筋肉が強張り、冷や汗が溢れそう。そんな状態になるほど緊張していたのだ。
そして、ようやく言ってしまった今。
言う前と同じくらい緊張を感じている。
ロゼットはすぐには言葉を返してこない。その際、ミリアムは「早く何か返して!」と叫びたくなるような衝動に襲われる。が、それを実際に口にすることはなかった。そんなことを発してしまったら、場の空気が悪くなってしまうから。
「出掛けるということですか?」
「えぇ。嫌かしら」
「あ、いえ。そういうわけではないのですが」
その時、廊下の向こう側からスープが歩いてきた。一人だ。気が散っているらしく、前を見ていない。上下左右、いろんなところを見回している。見回していることに深い意味はなさそうだが。
「あ! ミリアムさん!」
すれ違うほどに接近し、スープはようやくミリアムたちに気づく。
「スープは一人?」
「え。あ、はい! そうっすよ!」
意外にも楽しそうな顔をしているスープ。
「今から用事?」
「そうなんっす! 自動車改造の許可を貰いに行くところで」
スープの表情が妙に明るい理由が分かり、ミリアムは何となく納得した。
ミリアムはスープを引き止めることはしなかった。その理由は、特に用がないから。ただし、それだけではない。スープが早く進みたそうだったから、という理由もある。許可を貰いに行きたくて仕方がない彼の時間を奪うのは悪いと思った、ということもあるのだ。
「じゃあ行きましょっか、ロゼット」
スープとすれ違い、ミリアムはロゼットへと意識の方向を戻す。
「どちらへ?」
「気が早いわね! 行き先は今から考えるのよ」
ミリアムは行き先を決めていなかった。
実は、思考がそこまで及んでいなかったのだ。
「そうでしたか。しかし僕はエトランジェのことをあまり知りません……」
「知らなくても平気よ。せっかく落ち着いたのだし、ゆっくり見て回りましょ?」
二人はこれまでにないくらいのんびりとした心で道を行く。歩くその姿にさえ、今は余裕のような何かが滲んでいた。春風の中を歩むかのような二人である。
「目的地はないのですね」
「気の赴くままに、じゃ駄目かしら」
「いえ。ミリアムさんが良いようにして下されば、僕はそれで」
「合わせますーってこと?」
「嫌みではありませんよ。そのままの意味です」
穏やかで、何もなく、特別感など欠片もない日。けれども、ミリアムにとってはそれが幸せの形だ。戦うことも争うことも、憎しみ合うこともしない。ミリアムとしては、それだけでかなり理想に近い状態。何もない日こそが一番の幸せなのだと、彼女は知っている。
こうして二人は街へと繰り出す。
穏やかな日差しの下で。




