50.びしょ濡れ
「口の利き方を考えろ。愚かな非能力者」
パンの発言はセシリアの機嫌を急激に悪くした。それまで、ミリアムと会話していた間はもう少しましだったのだが、今は顔に不愉快さを強く映し出している。不愉快の極み、とでも言いたげな表情だ。
「テッメェ! そりゃブーメランだろ!」
感情的になるパン。
セシリアは無言で手のひらを向ける。
「落ち着いて、パン! 刺激しないで!」
ミリアムは咄嗟に叫ぶ。
その言葉を受け、パンは一歩後退した。
「……お、おう。だがなぁ、ミリアムさん……」
パンが一歩後退したため、セシリアも手を下ろした。
さすがに、攻撃する意思のない者に対して能力を行使する気はなかったようだ。
ミリアムはその様子を見て安堵する。
攻撃する意思のない者に攻撃したりはしないだろうと思ってはいても、少々不安だったのだ。
セシリアとはそこまで知り合いではないから、彼女の思考を完全に読むことはできなくて。それゆえ、どのような展開が待っているか掴めず。心には常に不安が存在していた。
「パン。余計なことは言わなくていいわ」
「まぁ……そりゃそうではあるがなぁ……」
「お願い、本題だけを伝えて」
「お、おぅ。まぁ、ミリアムさんが言うんなら……仕方ないな」
ミリアムの説得の後、パンは改めて水色の髪のセシリアに目をやる。
視線を向けられたことに気づいたセシリアは、厳しい顔つきをしたまま、パンへ視線を向けた。
二人の視線が重なる。とても穏やかな雰囲気ではない。両者共に、殺伐としていると言ってもおかしくないような視線を放っていた。すぐに戦いが勃発することはないだろうけど。
「怒らせるようなこと言ってすまん。ミリアムさんに免じて、今は素直に謝る」
パンは意地を張らず、すんなり頭を下げた。
ミリアムが意外に思ったのはそこだ。
数秒の間の後、セシリアは少しだけ表情を柔らかくして「……箱入り娘の影響力はそこまでか」と呟いた。
「で、本題に入りたいんだが。構わないか?」
「あぁ。構わないが」
パンの態度が丁寧なものになったからか、セシリアは少し聞く耳を持つようになった。
「この書類にサインしてほしい。それがこっちの望みだ」
「……サイン?」
「あぁ。この書類はな、エトランジェに干渉しないっていう誓いの書類なんだが、ここにサインしてほしいんだ」
そう言って、パンは書類とペンを差し出す。
セシリアは怪訝な顔。
「一体何を言っている」
「書いてくれ、ここに姉ちゃんの名前を。それを頼みたいんだ」
パンは本題を隠すこともぼかすこともせずに述べる。
彼の言葉は竹のように真っ直ぐなものだ。
ミリアムはそれを内心「凄い」と思った。自分だったらこの状況で本題を直接言うことはできなかったかもしれない、と考えたからだ。
「愚かな。上に確認もせずそのようなことはできん」
まぁそうなるわよね。
ミリアムはそんなことを思った。
「頼む、ちょっとだけだからよ! 保証人とかじゃねぇからさ!」
「……呆れさせるな」
「何を言ってる? 呆れさせてなんてないぞ」
風の中、セシリアは溜め息をつく。
「だが、嫌なら仕方ない! 強制的に書かせるまでだ!」
「っ……!」
パンは急にセシリアの右手首を掴んだ。そして、その手にペンを無理矢理握らせる。
「何をさせる!」
ミリアムは、セシリアがまた怒り出すのではないかと、ハラハラせずにはいられなかった。能力者を怒らせるのはリスクが高い。それゆえ、パンの勢い任せの行動には不安しかない。
「サインしてもらうだけだよ」
「待て待て! いい加減にしろ!」
「ごめんな、待てないんだよ」
「さっ……触るな! ベタベタと触れるな!」
ついにセシリアはパンの手を弾いた。ペンは勢いよく宙を舞い、地面に落ちる。その時セシリアは、どこからか取り出したレースのハンカチで、パンに触れられたところを拭いていた。
「書いてくれないのか!?」
「強制されるのは不愉快だ。そのような野蛮なことをするのであれば、歩み寄りはしない」
「それは、野蛮なことをしなければ歩み寄ってくれるってことだな?」
「……考えよう」
暫しの話し合いの後、セシリアは書類にサインしてくれることとなった。
もしもの時にはエトランジェにてセシリアを匿うこと。それを条件とし、彼女はエトランジェ側の意見を受け入れることを決めた。
当初の予定よりか長期化した能力者と非能力者の戦いは終わる。
いつになく清々しい空だった。
◆
セシリアとエトランジェの非能力者との間で、話はまとまった。
戦いを終え、ようやく訪れる平穏。
ちょうど晴れ始めた。空を覆っていた重苦しい雲は、いつの間にか去っていた。雨はもう降らない。地上を濡らし続けていた雨粒は、ただ地面に染み込んでゆくのみ。
「やりましたね! ミリアムさんっ」
満面の笑みでミリアムに抱き着いたのはサラダ。
「え、えぇ……そうね……」
いきなりハイテンションで関わってこられるとは思っていなかったため、ミリアムは明るく返せない。
風邪を引きそうなくらいびっしょり濡れ、しばらく危険な場所にいた疲労もあって、気の利いた返事を素早く考えることはできなかった。まともなやり取りができるようになるためには、もう少し回復する必要がありそうだ。
「あれっ? テンション低くないですか?」
サラダはきょとんとしている。
「そんなことはないわよ。ただ……少し疲れてしまって」
「そうだったんですね! 急に絡んで、ごめんなさい」
「気にしないで。サラダは悪くないわ」
戦いは終わった。
そう理解した瞬間、これまでの疲労が一気に襲ってきた。
緊張している間は平気でも、気が緩むなり平気でなくなる。そういうことは、誰にでもあるもの。そして、今のミリアムは、まさにそういう状態に陥っている。
「助かったぜ。今回もありがとな、ミリアムさん」
サラダに腕を絡められていたミリアムは、パンが接近してきたことに気づく。
「がっつり濡れちまったな」
「えぇ……これは酷い状態だわ……」
「妙に元気ないな!?」
「何だか疲れてしまったわ。……こんなことを言うべきではないと思ってはいるのだけれど」
「まぁ、それは仕方ないな」
「助かるわ。理解してもらえたら」




