18.発熱
ロゼットは既に発熱していた。三十七度五分。ずば抜けて高い熱ではないが、発熱していないと言うには高すぎる体温だ。雨に降られて濡れて冷えたことが原因だろう。シャワーを浴びさせるところまでしても、手遅れだった。
「やっぱりね。熱があるわね」
「……すみません」
ソファに横たわるロゼットは申し訳なさそうに謝る。
その顔面は熱い。ミリアムが再び手の甲で額の温度を測ったが、まだ平熱とは思えない熱さがある。
「いいのよ、気にしないで。今夜はうちへ泊まっていくといいわ」
使い終えた体温計をケースに収納しつつ、ミリアムはそんなことを述べる。
「なぜそんなに……優しいのですか?」
「体調が悪い人を放ってはおけないわ」
「ミリアムさんは……とても優しい方、なのですね」
ロゼットは仰向きに寝たまま瞼を閉じている。それに加えて、照明器具からの光が目の奥に届かないよう、目もとに腕を乗せていた。
「何言ってるのよ。優しいのは貴方でしょ?」
「……ミリアムさんです」
「でも貴方は私を助けてくれたじゃない」
ミリアムは立ち上がり歩き出す。彼女の瞳が捉えているのは、リビングとほぼ一体化しているキッチン。
「あの時は……なぜか咄嗟に護らないとと思っただけです」
ほとんど使った形跡のない整理されたキッチンにたどり着くと、壁に設置されている棚の扉を手前に引いて開ける。露わになった棚の中には、数個カップが入っているだけ。二段になっているのだが、上の段には何も置かれていない。
「考えたくはないけれど、貴方がいなかったら私の命がどうなっていたか分からないわ。だから恩を感じているの」
棚の下段から白いマグカップを取り出し、蛇口をひねる。出てきた水道水でマグカップの内側を一回すすぎ、それから、改めてマグカップに水道水を注いでいく。カップの内部で、透明な水が繊細に揺らいでいた。
ミリアムは水道水が入ったマグカップを持ってソファのところへ戻る。
そして、ソファの近くに、静かに腰を下ろした。
「お水を持ってきたわ。飲みたかったら飲んでちょうだい」
「……色々すみません」
「もう少し後にする? それとも今飲む?」
「ええと……では、もう少ししてからにします」
その日の晩、ロゼットはミリアムの家に宿泊することとなった。
ロゼットは体調が少し楽になるにつれて眠そうな顔をするようになり、ミリアムが眠りにつくよりずっと早い時間にソファで寝てしまった。ミリアムは朝まで起こさないことを決め、一応布をかけておいた。
そして、朝が来る。
昨日とは真逆の良い天気だ。
「ん……」
カーテン越しに入り込んでくる陽の光によってロゼットは目覚める。
「おはよう、ロゼット」
ソファで寝ていたロゼットが起きた時、ミリアムは既に活動を始めていた。というのも、今日は今日で施設へ行かなければならないのだ。それゆえ、あまりのんびりはしていられない。
「ミリアムさん……僕は、確か……」
「あのまま寝ちゃってたわよ」
「そうでしたか……迷惑をおかけしました」
ロゼットはソファの上で横にしていた体を起こしつつ謝る。
そんな彼のもとへミリアムは向かっていく。その手には白色のマグカップ。中には真っ白な液体が入っている。
「はい。ミルクよ」
「ありがとうございます。……少し、口をゆすいできます」
自力で立ち上がり、風呂場の方へと歩き出すロゼット。
ミリアムは言葉を失いながら彼の背を見ることしかできない。
ロゼットは昨日とは状態が変わっていた。昨日は全体的に動きが怪しかったし、雰囲気も眠そうだったけれど、今日はそうではない。熱が下がっているかどうかはまだ明らかになってはいないが、ミリアムが想像していたよりずっと晴れやかな顔になっている。
置いていかれたミリアムは口の中で「案外元気じゃない」と小さく呟くのだった。
◆
ロゼットの発熱はたった一晩だけの出来事で終わった。病気であれば数日は治らないだろう、とミリアムは考えていたのだが、その予想は見事に裏切られた。ただし、良い方向の裏切りである。
その日、ロゼットはミリアムと共に、パンたちがいる施設へと向かうことができた。
ミリアムはロゼットがまだ完全に回復しきっていないだろうと考えていた。なので「今日一日休んではどうだろう?」と言ったのだが、ロゼットは首を縦に振ることはせず。何事もなかったかのように、掃除をする道を選んだ。
「おはようございますっす。今日は二人なんすね」
施設に入っていく直前、スープにばったり出会った。
「おはよう、スープ」
ミリアムは軽やかに朝の挨拶をする。
それにロゼットも続ける。
「おはようございます。今朝は良い天気ですね」
ロゼットは紳士的だった。柔らかく微笑みながら言葉を述べていた。
「あっ……。お、おはようっす……」
「先日は酷い雨でしたね」
「そ、そうなんすね……。あ、あぁ、そうだったっす。降られたっす」
「僕も濡れました」
ロゼットがあまりに普通に話すものだから、スープも徐々に話せるようになってきていた。
本当に少しずつではあるが、二人の心の距離が徐々に近づきつつある。それはミリアムにとって嬉しいことだった。彼女は第三者、それは事実。ただ、それでもミリアムは、スープが能力者と会話しているところを見られることが幸せだった。
「ロゼットさんは、今日も掃除なんすか?」
「はい。そのつもりです」
ミリアムは「今日もやる気なのね」と心の中だけで呟く。
「つもり……? そりゃ……なかなか妙すね」
「そうでしょうか」
「あっ……あああ! すみません! ごめんっす!」
スープは一気に二メートルほど後退。獣に狙われた小動物のような怯えた顔をする。ロゼットを怒らせたかと不安になったのかもしれない。
ただ、対するロゼットは穏やかな表情のまま。
「いえ。何も、責めようとは考えていませんよ。気にしないで下さい」
上手くいっていても、なんだかんだでこうなるのね。
密かにそんなことを思うミリアムだった。




