15.最上階
結局、スープはロゼットとすぐに仲良くなることはできなかった。
ロゼットは柔らかい表情で接していたし、スープは自身の特徴を把握したうえで親しくなれるよう努力していた——が、すんなりとはいかなかった。
ただ、時間が経つにつれて、スープは徐々に心を開いて。離れていれば喋ることができるようにはなった。その結果、初めて会った時の無礼を謝罪することに成功。ほんの少しだけ、二人の関係が良い方向へ動いたと言えるだろう。
そして別れしな。
スープとロゼットはまた顔を合わせる約束をした。
それはミリアムにとって驚きだった。会う約束をするほどまで心が近づくとは想像していなかったのだ。
今はまだ、スープは能力者を恐れている。能力者から離れようとするその癖は、そう簡単に治るものではない。ただ、ミリアムのことは平気になれたのだから、ロゼットも平気になれる可能性は十分にある。
「スープは相変わらずだったわね」
ロゼットと二人になってから、ミリアムは独り言のようにそんなことを口にした。
ガレージを出てすぐのところで見上げた空は重苦しい色。乱層雲が空を塗り潰している。素人が見てももうじき雨が降り出しそうと感じられるような空模様だ。
心なしか湿った風が吹き抜け、髪を揺らす。
ミリアムは何を見るでもなく上空を見つめる。
「いえ。進展はありましたよ」
言って、ロゼットもまた灰色の空を見上げた。
「そうかしら」
「今日は話すことができました。大きな進歩です」
「貴方がそう思うのならそれでいいけど……」
ミリアムは湿気を帯びた風に吹かれながら、顎を持ち上げ、遠い目をする。
「何か、気になることでも?」
「いいえ」
「分かりました。……あの、一つ良いですか?」
唐突に話題が切り替わった。ミリアムは不思議に思って菖蒲色の瞳をロゼットの方へと向ける。すると、偶然か否かは不明だが、ぴったり視線が重なった。見つめ合う形になってしまい、ミリアムは視線を逸らそうとした。が、ロゼットの目があまりに強く見つめてくるものだから、ミリアムは目を逸らしきれない。
ミリアムとロゼットは見つめ合う。
この世から二人以外の人間が消えたかのように、二人は互いだけを視認している。
十数秒ほどの停止の後、ミリアムは恥ずかしそうに「あ……ごめんなさい」と述べてロゼットから目を逸らした。
「確か言いたいことがあったのよね? 何かしら」
「あのビルへ行きませんか」
「……あのビル? それって……私たちが出会った場所のこと?」
ロゼットは数秒間を空けてからほんの少し俯いて、静かな声で「そうです」と返した。
「また唐突ね。何か理由でもあるのかしら」
「いえ。ただ……貴女と出会ったあの場所へ行きたくなったのです」
◆
以前ミリアムが通っていたビルの十五階へ、今日はロゼットと共に行く。
そこは以前と何も変わっていなかった。床と天井以外、壁がすべて透明なガラス製になっていて、ちょこんとベンチがある。
ここのところミリアムは忙しかった。それゆえ、ここに来ることができない日も多かった。けれどフロアの状態は変わっていなかった。
ビルの清掃係が掃除してくれているのか、埃も溜まっていない。
ただ、今日は曇り空なので、赤に染まりゆくエトランジェを見下ろすことはできない。
見えるのは薄暗いエトランジェの街。
「懐かしいですね」
最上階の誰もいないフロアに到着するや否や、ロゼットは言った。
彼はいつもより楽しそうな表情をしている。前髪で隠れた右目を視認することはできないが、露わになっている左目には光が宿っている。
そんなロゼットを見て、ミリアムは「雰囲気が少し変わったな」なんて思ったりして。
「えぇ。覚えているわ、ロゼットと出会った日のこと……」
「僕も覚えていますよ」
「変わったわね、ロゼット」
あの日、ミリアムは彼の、血が通っていないような瞳に惹かれた。
なぜだか分からないけれど、その陰をはらんだような目つきに心を揺らされたのだ。
「僕が?」
ロゼットは目を見開いて、薄めの困惑の色を顔面に滲ませる。
「えぇ。あの時の貴方はもっと……暗い目をしていたような気がするわ」
「ミリアムさんが仰るなら、そうなのかもしれませんね」
「すんなり認めてしまうのね!? 意外だわ」
ミリアムは笑いながらベンチに座る。
座り慣れたベンチ。でも今は、以前と同じではない。言葉を交わせる人がいる。近い境遇を持つ人がいる。ただそれだけで、気分は随分変わってくる。
「意外、ですか」
「えぇ。普通、他人から言われたことをすんなり受け入れたりはしないものでしょう」
「そういうものでしょうか」
「まぁ、私の中の人間のイメージかもしれないけれど……」
会話は成り立っている。が、ロゼットはベンチには座らず、フロア内を気ままに歩き回っている。ミリアムはベンチに座って、ロゼットは自由に歩いて。それぞれが思い思いの形で人のいない場所と最上階からの風景を楽しんでいる。
その時、一滴の雨粒が窓ガラスを叩いた。
透明な雫は重力に逆らえず上から下へと垂れていく。そして、やがて、形を崩しながら下へと落ちていった。微かに残った光を照り返し、見る者の目に煌めきだけを残して、去っていく。
「雨が降ってきたようですね」
ロゼットはその雫を見逃さなかった。
「本当ね」
ミリアムはベンチから腰を上げ、窓ガラスの方へと歩いていく。
そして、ガラスに近づくと、片手の手のひらを透明なガラス面に当てた。
「雨粒が光ってるわ」
「そうなのですか? 雨粒が光って?」
「見て、ロゼット! とても綺麗よ! 雨粒が!」
「……確かに美しいですね」
地上に降り注ぐ涙のような水滴を目にして、ミリアムは何とも言えないような気持ちになっていた。




