Prologue
銀の国の中に位置する街エトランジェ。
そこは、この世界では普通に存在している能力というものを持たぬ者たちが集う、一種の楽園だ。
始まりは、能力者たちが非能力者のほとんどを一つの街へ集結させ隔離することを決めたこと。弱者である非能力者を悪い能力者から守るため、その大義名分のもと、エトランジェは生み出された。
非能力者には、この街から出入りする術はない。
外界へと続く巨大な門を開けなくては、ここから出られないからだ。
エトランジェは美しい街だ。周囲を高い壁に囲まれていることを除けば、風景は普通の都市と何ら変わりない。けれど、銀の国の能力者たちに支配されている。非能力者に与えられた自由は限られたもののみ。生活の平穏を与えるという名目で、非能力者たちは抑圧されている。
◆
「ミリアムさん! 今日はもう帰るんですか?」
いそいそと廊下を歩いていた少女が声をかけたのは、一人の女性。
エトランジェで非能力者に自由を与えるべく活動している、ミリアム・ルブールである。
「えぇ。帰るところよ」
アーモンド型の目を細めると、宝石のように輝く菖蒲色の瞳が煌めく。
ミリアムはいつも神々しい雰囲気をまとっている。金の髪もまた、彼女に人離れした雰囲気を与えていた。短めに切り揃えられた前髪。顔の両脇に細く垂らした房。螺旋を描くように形作られている、左耳の辺りで一つに結んだ後ろ髪。一本一本が電灯の光を浴びて絹糸のように輝いている。それがまた、見る者に荘厳な印象を与える。その姿は、まるで女神である。
「お疲れ様です!」
元気に別れの挨拶をする少女。その手もとに、ミリアムの視線は向いていた。少女が重そうな紙の束を持っていることに、ミリアムは気づいていたのだ。
「貴女はまだ仕事が残っているのね」
「はいっ。今から書類の整理とミーティングが」
「何か手伝えることがあれば良いのだけれど……」
ミリアムは手を口もとへ近づけ、困ったような顔をする。
彼女の爪は艶やか。特別な色はついていないが、そのままの爪とは思えぬ美しさだ。透明なマニキュアが塗られているのだろう。
「大丈夫です! 戦闘以外の時には、ミリアムさんには休んでいただきたいので!」
「でも……」
「いいんです! 雑用はわたしみたいな何もできない人間が片付けておきますから!」
三年ほど前、ミリアムは社会勉強としてエトランジェへやって来た。一ヶ月間非能力者たちの暮らしを見るというのが、彼女に与えられた課題だった。彼女は見知らぬ街での生活を楽しみにしていたが、暮らしていく中で、非能力者たちが能力者に対して抱いている最悪なイメージを知ることとなる。
エトランジェの人間は、皆、能力者を嫌っていた。
ある人は、彼女が能力者であると分かると子どもを隠した。ある人は、能力者への恨みを込めた言葉を乱暴に投げつけてきた。道で遊んでいた子どもなどは、怪物でも見るかのような目で静かに離れていった。
そんな経験を重ねる中で、ミリアムは己の行くべき道を決めたのだ。
ただ、それは、能力者たちを敵に回す選択でもあったわけだが。
「何もできないなんて、そんなことを言わないでちょうだい。あなただって一人の人間だわ」
「でも、能力者の方々みたいな特別な力はありませんし」
「そんなことないわよ。能力がすべてではないわ」
「さすが『エトランジェの女神』と呼ばれる方ですね、ミリアムさんはお優しいです。じゃ! これで失礼しますね!」
紙の束を抱えたまま、少女は歩いていってしまう。
ミリアムは溜め息を漏らしつつもひとまず帰宅することにした。
◆
帰り道、ミリアムが寄ったのは、とあるビルの最上階にあるガラス張りのフロア。ガラスで囲われていてベンチがあるだけの、基本誰も来ない場所だ。
けれどもこの場所は、ミリアムにとって特別な場所である。
非能力者に自由を。かつてその決意を固めたのが、この場所だったのだ。
最上階、十五階から見える景色は、とても美しい。特に夕暮れ時には、無数にある建物を夕陽の色が一斉に染め上げる。エトランジェが夕陽で染まる、その光景を眺めるのがミリアムは好きだった。
大抵ここには誰も来ない。ミリアムしかいない。だが、その日は違った。
「すみません。ミリアムさん……ですよね?」
ミリアムがベンチに座って風景を眺めていると、一人の青年が現れた。
その青年は銀細工のように繊細な髪の持ち主だった。長く伸ばした前髪で右目を隠しており、男性であるにもかかわらず女のように髪を伸ばしている。
背は高く、すらりとしていて、顔立ちも中性的ながら惹きつけるものがある。
いきなり現れた男など、普通は怪しいとしか思えないだろう。だがこの時、ミリアムはなぜか、彼から目を離せなくなった。
「……貴方は?」
「ロゼットと申します。僕も能力者ですが、ミリアムさんの活動に感銘を受けました。貴女のお仲間に加えていただきたいのですが」
突然現れた青年——ロゼットは、微笑んでいても胸の内を晒け出すことはしないような人物だった。けれども、ミリアムはその血が通っていないような瞳に惹かれ、見つめ返す。
「いきなり言われても分からないわ。……まずは話をしましょう」
その出会いからすべてが始まることを、今はまだ誰も知らない。




