格闘訓練 前編
メクルは再び動きやすい薄手の紺色スポーツウェアに着替え、長袖のパーカーを羽織りやってきたのはマンション6階。
そこは格闘訓練用に作り替えた部屋でした。
射撃練習場より明るい作りの部屋は床や壁を衝撃吸収のウレタン緩衝材に作り替えてあります。フォームを確認するための壁鏡も設置、なんなら冷水機とプロテインバーの自販機もあります。
「おはようございます」
メクルは背筋を正し、まっすぐに一礼しました。その一礼の先に、男がいます。
公式の柔道の試合が可能なマットエリアの中心に、一人の男が座って足を開いてストレッチをしていました。
年齢は三十路ほど、目元まで伸びた水気のないボサボサの黒頭、面長で高い鼻、緩めの黒いパーカーにミリタリーカーゴパンツという風体は初見の印象を『だらしない男』と付けそうですが、それを男の顔や腕に付いた古傷が訂正します。
筋の通った鼻に傷、二重の瞼に傷、耳に、腕に、肘に、目に見える肌という肌に刻まれた古傷の数は、おおよそ日常生活をまっとうに暮らしている人間のものではありませんでした。
「ようメクルちゃん、先に身体を暖めさせてもらってるぜ」
落ち着きのある低い声で、男はやってきたメクルに微笑みました。
「お久しぶりです鬼笛先生、お仕事の方は大丈夫でしたか?」
「今週は表でも裏でも試合が無くてね、暇してたんだよ、ん? まてよ久しぶりか? あぁそうか、帰ってきたばかりなんだな? ブランクは?」
「三ヶ月です」
「なるほど、そりゃ久しぶりだ、こっちじゃ一週間ぶりだが……鈍ってないか?」
「はい、鈍ってます、おもいっきり」
鬼笛と呼ばれた男はストレッチを終えたのか、ひょいと立ち上がった。
座ったままだと見て取れなかった全身を見て、メクルが眉を潜めた。
「……鬼笛さん、痩せました?」
「違うよ、死ぬほど喰って走って3キロ増やしたんだぞ、メクルちゃんに負けてから」
そう言って立ち上がると、その身体がひょろりとした長身でありながら、余すところなく鍛えた人間だとわかります。
生地の多いダボついたミリタリーカーゴパンツの上からでもわかる長い脚。
上着のパーカーを脱ぎ捨て黒いTシャツ姿になれば、その身体が戦闘に特化した物だとよくわかります。
身体中に魚鱗の如く張り付いた筋肉は鎖帷子の鎧のようです。
「あと禁煙も、やっぱり煙草はよくないね、一週間我慢してるけど実際調子いいよ」
飄々《ひょうひょう》とした雰囲気のある男でした、しかし練り込まれた肉体、首を支える膨れ上がった両肩、背、胸、夥しい数の傷で縫い込まれたような筋肉は紛れもない雄々しさの体現です。
なにより作りこまれているのは拳、その手、その骨、肉の付き方、幾度なく骨折を繰り返し、太くしてきた使い込まれた長い両之手、しなやかな筋は十数匹の黒蛇のように両腕へと巻き付き、徒手空拳でありながら抜き身のような鋭さが鈍く輝いていました。
生徒会長の無叢天士が巨大なハンマーであるなら、鬼笛という男の放つ雰囲気は『ノミ』相手をジワジワと叩いて削り取るような剣呑とした風格があります。
「それで今日はどんなルールでやるんだい? またバーリトゥードとか?」
不敵に微笑む男の目つきが鋭さを増しました。
雰囲気から獣じみた匂いが漂い始めるのを感じると、メクルも掌に汗が溜まり始めるのがわかりました。
「……あー、その、今日はリハビリのつもりで依頼したのですけど」
メクルは苦笑いを浮かべ、鬼笛の殺気でピリつく頬を掻くと、
「おいおい、そりゃないだろ、せっかく獣と獣が鉢合わせたんだ、雌雄を決しようぜ?」
鬼笛は楽しそうに微笑みました。
「いえ最初から私は雌ですよ?」
「じゃぁ俺はそんな雌猫に負けたってわけだ、泣けてくるねぇ、いや雌虎か?」
「虎って……それに前回のは別に私が勝ったわけじゃないような」
「いいんだよ、俺が負けを認めたんだ、負けは負け」
鬼笛はオープンフィンガーのグローブを装着し、その場で自らのエンジンをかけるように軽いジャンプを始めてしまいました。
もう完全に臨戦態勢へと移行を始めています。
「さぁそろそろ開戦めようか、身体は温めてきたかい?」
「はい……じゃぁ制限時間10分、何でもありの一本勝負で、いいですか?」
「もちろんだ、がっかりさせてくれるなよ」
両者の間合い、10歩。
見た目、一方は素手だけでそこら辺の男なら簡単に殺せそうな獣のような男。
鬼笛信長、188センチ、スーパーミドル級、74キロ。
見た目、一方はスポーツジム通いをしているのだろうただの女子高生。
綴喜メクル、168センチ、フェザー級、54キロ。
この二人を見て、誰が『禁じ手無しの試合』をするのだと思うでしょうか。
「では、よろしくお願いします」
「よろしく、じゃおさらいからだ」
鬼笛の準備運動のジャンプがフットワークへと移行します。
着地の位置を変えながら、体重移動のタイミングを悟られないよう、さらに相手の攻撃に即座に対応するために爪先へと力を貯めながら刻む短く小さなフットワークはボクシングのそれに似ています。
脇を締め、右拳を顎下に構え、左手を脱力させながら腹の前に置くフリッカースタイルです。
メクルも深く息を吸い込み、戦闘準備に入ります。
パーカーは着たままで、オープンフィンガーグローブを着け、両腕はスタンダードに胸の前で構えてから、フットワークを始めます。
左右前後と足の位置を変えながら、歩くような早さのフットワークは獲物を追うネコ科のようです。いついかなるタイミングにでも全方位へと身体を発射できるように足に力を貯めながら歩くメクルを見て鬼笛が感心します。
「だいぶフットワークが身についてきたな、様になってる」
「先生が良いですからね」
「だろうな、是非ともそのイケてる先生の顔が見てみたい」
「あ、鏡なら後ろにありますよ、振り向いてください」
「おっとまた後頭部を蹴るつもりだな?」
「バレましたか」
二人がクスりと笑います。
笑いながらもフットワークは円を描くように動き、両者が距離を詰めます。
前へ、近くへ、縮まる間合い、残り4歩で先に仕掛けたのは鬼笛でした。
「まずは挨拶だ」
フリッカースタイルからの右足の踏み込み――
(フェイント? いきなり左のストレート、違う……、右だ)
爆っ、と閃光を思わせる右の縦拳。
空気の壁を突き破る音と共にメクルの顎先を狙います。
拳が放たれるとほぼ同時にメクルは後ろへとバックステップ、寸での間合いで拳を躱すも、鬼笛は続けざまに左フック、右ブロー、左脚によるハイキックの四連続攻撃が息も尽かせぬ連打となって牙を剥きます。
その攻撃はボクシングの動きではありません、ボクシングよりさらに短期決戦を想定して編み出された近代武道の一つ、その名も『截拳道』。
相手を戦闘不能にする想定タイムは、僅か10秒以内。
10秒という短時間で相手の意識を刈り取り、戦闘不能にするために伝説の中国武術家が中国拳法をベースにボクシング、サバット、柔道、空手、レスリング、果てはフェンシングの動きまでも取り込み、独自に編み出した近代武道の一つです。
その最たる特徴は『最短距離を最速の最打をもって相手を打つ』
最短×最速×強打=即決着。
一撃一撃がクリーンヒットすれば並の男なら失神、それがただの女子高生なら下手すれば骨折、即座に病院送りの攻撃でした。
しかし、メクルもただの女子高生ではありません。
その全ての攻撃を後方へと飛び、弾き、いなし、しゃがむ事で回避し距離をとります。
僅か2秒程で4手4避の攻防でした。
「うん、相変わらずの逃げっぷりだ」
「当たったら死んじゃいます、そんな攻撃」
「当たり前だろ、殺すつもりでやらないと、君には届かない」
世が世なら女子高生を殺すつもりで殴りかかったら、例え未遂でも逮捕はまのがれません。
「私、そんな手加減してくれない鬼笛さんが好きですよ」
「わぁお、こんな美人な女子高生にそんな事言われるなんて、おじさん感激だなぁ……でも、おだてても何もでない、ぞっと」
嘘です、右拳が出てきました。
右足の踏み込みと同時に右拳を突き出す中国武術独自のスタイル。
メクルはこれも後方へと飛んで避けます。
追うように鬼笛が放つ攻撃で壁へと追い詰められないように、しっかりと方向をずらしながら後ろへと逃げて、避けて、避け続けます。
最速のコンビネーションをメクルはとにかく避け続けました。
もし截拳道が最短を最速で打ち抜く技術であるのに対して、メクルの行動には技術としての名前がありません。
なぜなら、それだけどの武術、格闘技においても当たり前の動作だからです。
格闘技、武術とは相手の急所へと攻撃を当て、時には組み、投げるために独自の訓練、型、手法の数々がある中で、全ての武術に共通する動作。
(よし……、だいぶ読めてきた)
すなわち『バックステップ』、後方への全力回避です。
どれだけ強い一打であっても、想定していた直撃の位置から拳三つ分離れれば威力は半減、半歩下がれば当たりません。
メクルが多くの時間を費やして身につけたのはこの『回避』をするための技術でした。
つまりは逃げの一手、回避にだけ集中することで、正面衝突では絶対に勝てない『格闘技』のルールを、『鬼ごっこ』へとメクルは変えていました。
これが公式な試合なら『戦意無し』と見なされる反則です。
お金を払ってお客さんがこれを見たのならブーイングの嵐です。
しかしここには審判もいなければ、観客もいません。




