幸あれ 兄貴
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
たっだいまーっと。はーい、ご所望の飲み物買ってきたわよ。
いやー、ついにこのあたりでも、レジに飛沫防止のシートがつき始めたわね。店員さんのマスク、手袋、お金の手渡しご遠慮ときて、追い打ちかける第四弾。
まさか、人生のこの時期になって、この手の経験をするなんてねえ。もはや私たちお客が、バイ菌様か何かみたいじゃない。
といっても、ぶっちゃけバイ菌の塊なのは否定できないわよね。毎日、お風呂に入ってしっかり身体をきれいにしても、一歩外に出れば汚れが充満している。ちりにほこりに、誰かのつばきとかがそこらじゅうにあって、気づかないうちにへばりついている。
そんな汚いのを引っつけた者同士、コミュニケーションとっていても、たいていは問題なく済むんだから、人体の防御機能ってすごいわよねえ。裏をかえせば、私たちにべたべた触られているまわりのものは、すべて殺傷兵器になる可能性があるわけよね。なに相手とはいわないけど。
私たちの何気ない行いも、そこにはとてつもないパワーが込められている。そう感じさせる体験、あなたにはないかしら?
うちの兄貴が体験したことらしいんだけど、聞いてみない?
兄貴ってさ、小さいころはちょっとした不幸少年だったみたいなの。
学校に通っているときだけでも、授業で「この部分だけは、あててくれるな」というところに限って的中。まともに答えられず、恥をかかされること多し。給食をめぐるじゃんけん合戦、早い者勝ちの遊び道具確保なども、連戦連敗。しまいには、大事にとっておいた冷蔵庫のアイスを、私に食べられる始末よ。
――え? 最後はどう考えても私が悪い?
えー、でもでもだってえ。そんなに大事なものなら、名前のひとつもつけておくもんでしょがあ?
小さい頃から教わっているでしょ? 自分のものには名前を書きなさいって。
いちおう「ゴメン」とは謝ったのになあ。三日くらい引きずられたわ。あまりに気の毒だから、同じアイスを買ってきてあげたけど。
で、さんざんに打ちのめされていた兄貴。その日の放課後も、給食のゼリー争奪戦に敗れた屈辱を負ったまま、とぼとぼと帰り道を歩いていた。
校門を出て、最初の横断歩道を渡る。その直後から、兄貴はかすかに眉をしかめ出したの。
虫の羽音がする。
蚊よりはもう少し大きくて、セミくらいに感じたって。目視はできなかったけど、歩きながら手で払う仕草を挟んで、様子を見る。音はそれでも止もうとしない。
――変な虫にまで絡まれるとか、とことんついてねえ……。
事情を知ったのは後日だけど、その日の兄はすこぶる機嫌が悪かったわね。
兄は物静かにいら立つタイプ。必要最低限の受け答えはするけど、それ以外のおしゃべりを徹底的に拒絶する。
実際、その日は食事中も、お風呂に入っているときも、眠るときさえも例の羽音が絶えなかったらしいからね。私でも激おこ、とまでは行かなくても不機嫌プンプン丸になると思うわ。うっとおしいこと、大嫌いだし。
ま、さっきも話したように、兄貴が説明してくれたのはだいぶ後になってからのこと。はたから見る限りだと、めっさ機嫌が悪いことしか分からないからね。刺激しないように気をつけるしかなかったわ。
その日以降も、兄貴はこの羽音に悩まされ続けたわ。
兄貴が経験したところによると、自宅をのぞいた室内では、音はかなり小さくなる。羽音の主も自重しているのかもしれなかった。
そのぶん、外に出るとやかましさが増す。特にこいつらは兄貴の息に反応しているらしくって、息を吐くたびボリュームが1割増しくらいになる。これが咳とかくしゃみだともう大変。耳を思わず塞ぎたくなるほどの騒がしさにランクアップ。
そのうるささたるや、話している友達や、先生の声なんかも聞こえなくなっちゃうほどだったらしいわ。途中で耳を押さえたくなるけど、そのたび相手は「どうした?」って顔をしてくる。
気づいているのは、自分しかいない。そう思っても、兄貴の中では怖さより煩わしさのほうが勝ったわ。
ふと話に聞いたことのある、飛蚊症を思ってしまう兄貴。明るいところにいるときなど、視界の中に毛や糸くずなどが浮かんでいるように見えて、まばたきをしても消えることはない影。目の硝子体が濁ることによって起こるといわれている。
それの音バージョンに襲われている。かといって、耳鳴りの類で親に相談するのも、どこかかっこ悪いと、兄貴は思っていたみたいね。
我慢していれば、向こうの方から収まっていくに違いない。
そう心の中で決めつけた兄貴の顔、ずっとしんどそうだったのは覚えているわ。
それから二週間ほどが経ったわ。
いよいよ音は室内でも大きくなるとともに、兄貴は自分の足の甲に変な感覚を覚えるようになったの。
あなたは、手の動脈とかが何かの拍子に動いたりした経験、ある? 不意に「ぐらっ」と転がってすぐに戻るんだけど、驚くことこの上ない、あのくすぐったさと気持ち悪さ。
兄貴はそれが足の甲に出るようになったの。羽音がわんわんうるさくなって、もう耳を塞がずにはいられないっていう直前。
ぽたりと、足の上に水滴が落ちるのよ。厳密には感触なんだけどね。
実際に水たまりができているわけではなく、靴や靴下を履いていても関係ない。その落ちる瞬間に合わせて、足の甲の血管が震えるの。
普段の歩いているときならまだしも、体育の間も突発的にやってくる。徒競走の最中にやってきて、大コケしたことだってあったとか。そうして息を切らせると、羽音はそれをあざ笑うかのように、ますます強いものになっていったらしいの。
もう何度歯噛みをしたか分からない。
その日は誰よりも早く風呂をもらおうとした兄貴は、いつもの日課で体重計に乗ろうとしたの。
すっぽんぽんになったところで、急にこみあげてくるくしゃみ。とっさに腕で口を押さえるけど、その拍子に聞き慣れた羽音が、これまでにないほど強まってきた。
ぽたぽた。ぽたぽた……!
兄貴の足の甲を絶え間なく叩くのは、もはやしずくなんかじゃなく、雨のようだった。そして足の甲は、血管が動くなんてものじゃなく、はっきりと波打つ何かの感触があったの。
見下ろした兄貴の目に飛び込んできたものは、両方の足の甲を隠すように膨らんだ、紅色のつぼみだったの。その上へしとどに降り注ぐ細かな水滴も、兄貴は初めて視認できたとか。
兄貴の口元近い空中から降り注いだ、それらの水に濡らされたつぼみは、ぱっと花開く。
その瞬間に飛び出したものは、兄貴の顔面へ飛んできたかと思うと、あっという間に見えなくなってしまう。足に咲いた花も、細かい雨たちも、気がついたらすっかり消えていたとか。
向かってくるまでの一瞬で兄貴が見たのは、ピンクと紫色に羽を染めた、小さい蝶の姿だったとか。
それからというもの、兄貴の不遇はだいぶやわらいだみたい。
授業で嫌なところを差されることも、給食や早い者勝ちの勝負でも、さほど後れをとることは少なくなったの。
もしかしたらあの時に咲いた花は、幸運の花かもしれない、と兄貴は話してくれたわ。
人より何倍も遅れた、花のつぼみ。それが兄貴の息やせき、くしゃみから出るかすかな水を雨として、ようやく開花へこぎつけたんじゃないかとね。