8 決戦は金曜日
「にゃーん、月島~、にゃーんにゃーん。」
…朝行くと、いきなり立川に廊下で懐かれた。
「昨日はありがとにゃーん。一言声かけていってくれればいいのに。うれしかったよ~。もう帰り、腹へってさ、倒れるかと~。そしたらお前がおやつもってきてくれたって小坂がいうじゃなーーい?もう、涙がぶわーーーってでてきてさー、泣きながら食ったもーーん。いままで何度もこんな目にあったけど、日が暮れてから食い物くれた奴なんて、お前がはじめてよ?ああん。初めてもらった御褒美がお前からだなんて、俺ってば幸せ者~幸せ者~っ!」
「ああ、腹へるだろうと思って。昨日は時間あったしな。…結局、仕上がったのか?」
「仕上がったよ。あんなもん、真ん中ちょいちょい誤魔化すだけだもん。他は全部できてたし。…な、月島…」立川はひそひそと言った。「…俺が指図して、小坂が仕上げたことになってるから、合わせといてくれ。」
「…なんで。本当のこと言えばいい。」
「だめ。…あの絵は小坂と大隈ががんばって描いた絵なんだよ。…俺は汚れたところをちょっと直しただけだから。ね?」
「…うーむ、まあ、わかった。」
冴が不服そうに言って、やっぱり昨日大隈をなぐっておけばよかったと思っていると、立川が「ぐるぐる」と猫の真似をして頭を肩のあたりにすりすりした。冴は気をとりなおして訊ねた。
「…で、絵はどうした?見たいぞ。」
「あっ、もう出してきちゃった。」
「ええっ、早過ぎるだろう。」
「いや、勝手に札つけて置いときゃいいんだ。…クラスの他のやつだれも壁画気にしてないし、大隈は多分、学祭出てこないよ。…大隈はね、完璧主義なんだ。だから、あの染みがどうしてもどうしても我慢できなかったの。俺も昔そうだったからわかる。…あの状況になったら、もう小坂が一人で全部いいように処理する以外ないから、誰も何も言わないよ。」
…どうせ隠しても、見る者が見れば、立川がかいたことはすぐにわかってしまうだろう。冴はそう思ったが、口にはしなかった。
「…へへへ、貼り出したらいくらでも見れるからさ。うふっ。…月島、」
「ん?」
「…チュ-しよ。」
冴は額を押さえた。
「…立川、チュ-は駄目。」
「…なんで。俺に金がないから?人望がないから?統率力や協調性がないから?」
「そうじゃなくて。…そんなものなくてもお前にはお前の凄いところが色々あるけれども…でも、チューはだめ。俺は愛してる人がいて、その人としかチュ-はしない。」
「そういう時代じゃないよ、月島。」
「どういう時代でも。」
「…じゃあ、この俺の、今お前に感謝を伝えたい気持ちはチュ-以外にどうやったら伝わるの?」
「もう伝わってるから心配するな。」
「心配はしてないけど、満足できない!」
「…あのな。」
「ねえ、お互いに満足がいくまで伝えあうのがコミュニケーションだと思わない?」
「それはそうかもしれないが…」
「月島はどうして俺の感謝の気持ちを受け取ってくれないの?」
「受け取ってるって。」
「受け取ってない。」
「…じゃあせめてなんか別の形にしてくれ。」
「…」
立川は少し考えた。そして冴の耳にひそひそ言った。
「…しゃぶってやろうか?」
冴は立川の頭をがしっと掴んで引き離した。
「立川、わかったぞ、条件は以下の通りだ。ゲイがみても俺達がストレート同士だと認定してくれる範囲のことで頼む。」
「…月島、プラトンも言っている、友愛が高まって通じ合うようになる同性愛は恥じゃなく高尚なものだ。つまり、友愛は高まると一線をこえるというのが前提なんだ。」
「越えない範囲で頼む。つーか貴様、そういう主題の掴み方はプラトンが怒るぞ。」
「社会背景の違いから焦点がずれただけだよ、プラトンの師匠も言ってる、ノミソぶさいくな通行人にいちいち腹をたてるなと。遥か後世のアジア人の一高校生ごときに怒りゃしねーよ。…そんなことよりー、俺と一線越えようよー。」
「立川、俺は恋人がいて、もうすでに今の段階でお前とその人を対面させられなくて悩んでいる。」
「もう悩んでいるんなら、別に同じことだ、いいじゃないか。月島は俺のこと好きだよ。別に、きかなくてもわかるもん。おまえ、わかりやすいから。」
「立川、俺は立川は好きだが、…だからそうじゃなくて、ああっ、イラっとするなぁっ、おまえはもぉぉぉぉぉっ!!」
急に立川が軽くなった。
…見ると、登校して来た藤原がいて、猫をせっかんするときのように立川の後ろ衿を掴み、冴から引き離していた。…鬼みたいな顔だった。
+++
「…朝から、マエストロが我らが麗しの月島君をおそっている現場をみてしまった俺としては、やっぱりマエストロの称号を変態に格下げしたいと…。」
「そうか、藤原、わかってくれたか、お前と月島が朝から抱き合ってるの見た奴も、話をきいた俺も、そんな気持ちだったんだぞ…?」
「須藤も月島もどうして立川かばうんだよ。」
「…友達だから。」
「一線こえてもしらねえからな!」
「月島はともかく、俺は越えんわ。」
須藤はうるさそうに耳をほじった。
「…さて、乾物も無事入荷したようだし、あとは根津の原稿だけだな。」
「…まにあわねーと思うよ。」
藤原はニヤリと笑った。
「…その確信はどこから?」
「ぶえっつにいいい。」
「…なんかもってって様子みてくるかな…。」
「もうまにあうはずないって。一晩くらいでどうなるってんだよ。」
冴は立川ショックで机にへばっていたが、ふと思い出して金を数えた。
「…須藤、チケット代。」
「ああ。そうだった。…おいタッチ-、いくか、ライブ。みんないくぞ。」
「あーうーん?なになになに。」
「俺の先輩のライブいくか?」
「プ、俺の先輩だって、やらしー!」
…須藤は持っていたパンフレットでスパーンと立川を撲った。
「ああん、いたいー。いたいー。」
「…根津行くかな?」
「いくぜっていえば行くんじゃね?」
「立川はいかないんだな?!」
「ああん、いくーいくー」
「ったく、ほらっ。…あ、そーだ、お前に文1の麗人喫茶の券やるわ。ほれ。」
須藤はユウから買ったチケットを一枚立川にさしだした。
「なにこれ。」
「おかっぱの美人のおねーさんから買った。」
「ああ、月島の従姉妹?…そうなんだ。あんがと。…へー、じゃあのお姉さん、宝塚みたく、男装?すてきじゃん! おれ楽しみかも!」
立川の一言に、みなフリーズした。
藤原がおずおず、冴にきいた。
「…そうなのか?」
「…多分。」
冴はうなづいて、藤原に手を差し出した。
「…?なに。」
「…おまえ2枚あるだろ。俺に一枚くれ。」
「おまっ…買ってやれよ従姉妹だろ?!」
「買ったが、根津にやった。」
「なんで?」
「…このチケットを描いている人は、文芸部のもとの部長なんだ。根津にとっては、懐かしい人なんだよ。」
「へえ。…変なことしってんのな、お前。」
藤原はチケットを一枚、冴に渡した。
「…この間会ったろ、帰り道で。」
「へ?いつ。」
「…車で送っただろう?」
「だれを。」
冴は黙って藤原を指した。
「…て、家主さん?! あの妄想バクハツのビジン男子学生の家主さん?」
冴はうなづいた。
立川が冴を見た。
…これで、陽介のことをしらないのは、立川だけだ。
+++
ホームルームが済んですぐ、設営でガタつく教室を逃れて、根津は文芸部の部室に籠っていた。
もうダメかな、と根津は思っていた。
金曜も正午をすぎている。これから原稿ができたとしても、編集して、古い印刷機の機嫌をとって、紙をさして、インクをのせて…乾かしてとじたら、多分深夜をすぎる。学祭前日でも、基本、夜中12時で帰されるという噂はきいていた。ただ、ここの部室は僻地なので、免れる可能性もなくはないし、実際免れて泊まるのが、「学祭のプロ」なのだと聞いたこともある。
ストーブの鍋にお湯がわいた。とりあえず、インスタントコーヒーをいれた。
ま…在庫もあるし、いいっか、とも思った。
去年の会誌も大分のこっているし、今や貴重品となった、久鹿の美しい手製本も、少しは残っている。
ガラッと戸があいて、女子たちがはいってきた。
「あっ、根津くん、まだがんばってるの?」
「谷川先輩に吉見先輩。」
「無理しなくてもいいよ。勿論がんばってもいいけど…コーヒーの売り上げだけでも結構いい線いくから、心配しないでね。」
「…ま、かくんならかきなよ。設営あたしたちがやっとくから。どうせ漫研と合同だし。」
「…すみません。」
「いいよ。裏会誌ばっかりじゃかっこつかないからね。」
「キミは我らが希望の星だよ、根津くん!がんばれ!」
「ちなみに来年は部長だからね。」
「えーっ…」
「…印刷さ、この機械、回すのたいへんだから、ノートからプリントアウトしたほうがいいよ。チップで売ってもいいし。」
「うん、この機械無理。…インクもあるかどーか不明だかんね。」
「こいつは久鹿先輩のいうことしか聞かない機械なのよ。愛しあってたからね、久鹿先輩と。」
「『先輩』にでてくる『ソシュール』って愛人は、この子がモデルなのだ!」
「えーっ、あれ、印刷機だったんですか?人間じゃないんですか?」
「そうよ。」
「だれがそんな名前に…」
「久鹿陽タンにきまってんじゃーん。あのひとなんにでも名前つけるんだから。」
「そうよ。ちなみに『ロラン』はそのストーブよ。尾藤少年とともに、かわいがってたのよ。」
「ああ、あの3Pのやつ…ストーブだったんですか…はあ、そりゃあったかいわけだ…」
根津はあきれて、ストーブを見た。まったく、文芸部員の妄想能力は、すさまじい。
「…その尾藤さんてひと、どこいったんですか。3年ですよね。」
「…行方不明なのさ。こわいよね。陽タンが殺して埋めたんじゃねーかって、知ってる人はみんな言ってる。」
「そうそう、枯葉の寝床でしょ。仲良かったもんねーっ。」
「こわーい!」
二人は揃って嬉しそうにそう言った。
「…誰がだれを殺して森鴎外の娘だと?俺んちの庭は武蔵野の森か?! 殺すぞ貴様ら。」
突然した声にあいたままの戸口を見ると、さらっとして綺麗な柄のシャツを着た久鹿が腕をくんで立っていた。3人は仰天した。
「きゃーっ!」
「ギャ-っ!」
「うきー!!」
「…ひとり動物がまざってたような…?」
「なにっなにっなにっしにきたんですかせんぱいいいい!!」
「馬っ鹿野郎どもがーっ、ほれっ。」
陽介は焙煎店の袋を女子になげつけた。谷川があわてて受け取った。
「あーっ、『猫山珈琲店』の豆?!」
「ひいといた。スペシャルブレンドで割増料金で出せ。」
「えーっ、うれしいですう。原価おいくらですか。払いますう。」
「いらんわ貧乏人ども。」
「いやーん、先輩ステキー!」「抱いて-!!」「あらダメよ、先輩は男専門だから。」「ヤダ-っ、わすれてたーっ!!」
「死ねおまいら!!…そのかわり、券買ってくんね?」
久鹿はてへっと頭を掻いて笑い、大学祭の券を出した。
「あー、いいですヨ。」
「あらーっ、先輩がかいたんですねーっ、相変わらずうまいですねーっ。」
「300のところ200にまけてあげよう。」
「わーい。じゃ、一応5枚くださーい。」
「へい、毎度。」
根津が黙ってみていると、ふと目が合った。
根津はにっこりした。
「…俺、持ってます。」
すると女子がいっせいに振り向いた。
「えーっ、なんでーっ、早くない、根津くん!」
「早い、早いよ!」
「先輩、根津くんは、先輩の跡継ぎですよ、はげましてあげてください。」
「先輩に憧れて文芸部にやってきたんですよ。」
…久鹿はにっこり笑い返した。
…どきどきするようなビジン顔だった。
だがそこはそれだけでスルーされた。
「先輩、また先輩の裏本つくってもいいですか?」
「おめーらな、いつまであの本再版してんだよ。ノートチップ版までつくりやがって!」
「あーっ、みてくれたんですねー」
「やっぱり久鹿先輩やさしーっ、だいすきですーっ、抱いて-」
「抱かねーよ。」
「『先輩』『後輩』に続く第3弾! 『同級生』はどうですかね?」
「『卒業生』っていう案もあるんです。『大学生』とか。」
「とにかくあの古いネタ絶版しろ、話はそれからだ。情報が古いだろうが。文1の女どもに『尾藤くんは庭に埋めたの?』とか毎月きかれる俺の身にもなれ!!」
「…やっぱり」
「みんなそう思いマスよ先輩…」
「いいか、学祭終わったら、あの本は発禁!わかったな?!」
「わかりましたよ…」
「そのかわり『大学生』つくりますからね…」
「精々ストーブや印刷機にしとけや。まったくもう…実在の人間をだすなっつーのに…」
ぶつぶつと話が終わりかけたので、せっかくだと思い、根津は景気よく爆弾を投下した。
「最近は、コノヨのものとも思えないほど凄まじく美しい2年生と、よく買い物なさってますよね。一緒に暮してるんですか?」
…女子二人が驚愕の目でふりかえった。
久鹿がニヤリと凶悪な顔で笑った。
「…ああ、あいつな。…あいつ、俺を撲るのが趣味なんだぜ。ほら。」
久鹿が指した顔の頬骨のあたりは、たしかに小さな瘡蓋がついていた。
女子は、一瞬で凍り付き、ぱりんぱりんに崩壊した。
+++
「…コーヒーいれてやるよ。インスタントはまた平日に飲め。」
「…恐れ入ります。」
女子がいなくなったあと、久鹿は鍋を磨いてお湯を沸かし直して、持参したコーヒーをおとしてくれた。
インスタントではたちうちできない、良い香りがした。
2つのカップに分けて注ぎ、一つをくれた。
「…書けてないって?」
「…ええ、まあ。」
「…ネタは?」
「…あるんだけど…まあ、やめとこうかな、と。」
「何で。」
「…うん、まあ、いろいろ、です。」
「…書いたもん勝ちだと思うよ。」
久鹿はコーヒーを飲んでそう言った。
「…そうですかね?」
「…うん。」
「…書いていいと思いますか。」
「…うん。」
根津はちょっと動揺した。
コーヒーを飲んだ。
…飲んだことがないような、ものすごくうまいコーヒーだった。
コーヒーって、うまい、と思った。
「…」
「…だれにでも見せられるもんかきゃ偉いってもんでもないよ。…高校時代に冒険しないで、いつする?」
久鹿はそういうと、立ち上がって、戸棚から、一枚の厚い白い紙を出した。
「…サインペンかなんかもってない?」
「たしかボールペンならあったかと。」
「ああ、ボールペンでもイイや。」
根津が引き出しを開けて、ペンを一掴み出すと、久鹿はそのなかから適当に一本えらんで、下書きなしでいきなりその紙に何かを書き始めた。
根津は驚いた。
ほんの少しずつ、あの装飾紋が書き上がって行く。
「…みてないで打てよ。」
根津は慌てて、ノートを開いた。
…久鹿は1時間ほどかけて、その紋様を完成させた。
根津のすすみ具合を確認すると、なにか表をつくり出した。
枠組みがかけると、それを壁に張り、4のところに「目次」と書き「OK」と書いた。
それからまた別の紙を出して、今度はもっとシンプルな円形の紋様を書き始めた。30分ほどで出来上がると、真中に、9ミリの平先のサインペンをつかって、綺麗に題字を書いた。何度もなんども見たことのある、ずっと何年も受け継いできた会誌のタイトルだった。
それが出来上がると、久鹿は表のところの1のところに「表1 OK」、2のところに「表2 白」と書いた。
根津は焦って書き進んだ。
久鹿はコーヒーを入れ直すわ、といって、水を汲みに行き、もどってきて、鍋に水を入れた。
そして今度はノートを開くと、何かを打ち始めた。
「…根津、ペンネームは?」
「…ネオ・カズマです。」
「ニューかずま?」
久鹿が笑いかけた。
「ちがいますよ、俺本名は、ネヅ・カオルなんで、ちょっとひねっただけ。」
「字は。」
根津は少し考えた。カタカナやアルファベットだと、たしかになんとなくニューカズマのフランス語みたいになってしまう。
「…根っこに尾。」
「カズマはどうする?」
「数字の数に馬…一のほうがすっきりするかな。」
「どっちもそれなりにいいと思うよ。」
「じゃあ、数字の数で。」
「了解。」
久鹿はかたかたと手早くなにかをうち、すぐプリントアウトした。
立ち上がって、表の下に「表3 奥付・OK」と書いた。
根津はますます焦って打った。
…まだ太陽が沈んでいない。
久鹿はたちあがって、印刷機のカバーをはずした。
「…インクあるわ。」
そう呟いて、棚のしたの戸をあけ、飾り紙を出した。
「…表紙刷っちゃうね。30部くらいでいいかな。いや50刷っとくか、御祝儀だ。」
原稿をセットして、試し刷りをしてから、すぐに印刷を始めた。
こんな古風な印刷機、ここ以外の場所で見たことがなかった。
多分久鹿もおなじはずだ。
それなのに、久鹿はほんとうに手慣れた様子でその旧式の機械を回した。機械もまた、久鹿の信頼に答えるかのように、よく動いた。仕上がりもまるでまったく支障なく、多分製造当時の品質が保たれているに違いなかった。…女子部員の妄想が理解できた。
表紙が刷り上がると、久鹿はまたコーヒーをいれてくれた。
「…前記と後記、書くね。適当でいいでしょ。」
「あ、はい。」
久鹿は軽快にカタカタとキーボードを鳴らし始めた。
…おそろしい早さのタイピングだった。
+++
…気がつくと、4時過ぎには、根津の原稿はかきあがっていた。自分でも、いつのまにか自然に、という感じだった。…もともと、書きたい内容は決まっていたというせいもあったのだろう。
スペルチェックをかけて、しばらく待った。
「…できた?」
「はい。」
「何枚。」
「8枚です。」
「…スペルチェックおわったら文芸部のサーバーに送って。こっちで組むから。」
「はい。」
「…そっちの袋にチョコクッキーはいってるよ、ちょっと栄養いれな。脳に糖分無くなると、あたま動かなくなるから。」
「…」
根津はいわれるままに動くばかりだった。
クッキーを食べていると、久鹿が、
「…トイレいってこい。」
と言い出したので、「そこまで指図されなくても…」と思いながらもなんとなくトイレに行った。
もどってくると、久鹿がクッキーを食べながら、またものすごいスピードでなにか打っていた。壁の表が一気に埋まっていた。
画面から目をはなさず、手もとめずに「あぁ、おかえり」と言った。
「…行間ひろげてすこしカサマシしたけど、すこし足りないわ。2枚くらいなんか書いてくんない。」
「え、あ、はい。」
根津はあわててノートにむかった。
…なんかといわれても、と思ってこまっていると、久鹿が笑った。
「書き出しはこうね。『学祭の前日、ノートを広げて部室にいたところ、卒業した鹿内先輩が大学祭のチケットを…』…あとはまかせる。」
鹿内というのは久鹿の3つあるペンネームの一つで、編集記事の片隅にいつもかかれている名前だった。「しかうち」ではなく、「しかない」と読むのだそうだ。下の名前が功徳といって、名前から読むと「くどくしかない」になる。昔は野良猫のエピソードを延々つづったあげく、最後に「かわいいんだこの猫がたまらないんだもう、くどくしかない。」などとしめくくり、鹿内功徳、と署名がはいるのが編集記事の常だった。
根津はちょっと笑ってその書き出しで、鹿内氏の文体をまねて、まず一枚書き、サーバーに送った。最後には「わらうしかない」と書いて、「鹿内藁生」と名を入れた。
2枚目は、友達に壁画制作のマエストロがいて、…とはじまり、また彼の絵がみてみたいものである、などと終わる文を書いた。
久鹿は根津がその2枚を書いているあいだに、何か書いてくれたらしかった。
「…ページ少ないね。厚い紙に刷ろうか。思いきってイイヤツ使おう。とっといて黴びたら痛恨だから、紙は。」
久鹿は組んだデータをプリントアウトしながら、また戸棚の下の段を開けた。
表紙にも使えるような、厚手の綺麗な模様入りの紙を、あるだけ全部出した。
おしげもなく印刷機に放り込んだ。
自分は印刷機にはりついたまま、根津に「水くんで来て」と鍋を差し出した。
印刷をしながら、3杯目のコーヒーを飲んだ。
+++
6時には印刷があがった。
久鹿は家に電話をかけた。
「…あ、冴?…ごめん、飯つくっちゃった?ああ、まだ?うん、そうか、…俺、今日ちょっと遅くなりそうなんだよね。うん、学祭の準備にとっつかまっちゃってさ…。なんか食って帰るから、冴さきに食べて寝てよ。うん。」
根津もはっとして、ドミに電話をいれた、学祭特例中なので、門限は12時だ。食事は断った。なにか買って食べようと思った。
電話が終わると、誰かが戸口にやってきた。
「…だれかいるの?」
「あ、センセイ。」
久鹿が陽気に答えた。
顧問のジャイ子だった。ジャイ子というのは、勿論徒名だ。身長が175くらいあって、でかいのでそうよばれている。英語の教師だ。
「やっ、なにさー、美形部長、ひっさしぶりじゃない。元気でダイガクセーしてんの?」
ジャイ子はびっくりして中まで入ってきた。
「してますよ。」
「やあねえ、ますます綺麗になっちゃってー。」
「あはっ、…センセイ新入部員入ってたんですね。俺しらなかったわー。」
「あっ、根津ははじめてだね。かわいっしょ、スキンヘッド。こないだそったんだよね?」
「はい。」
根津はおとなしく答えた。
「いいですよね。さわりたくてうずうずします。」
「さわれさわれ。あたしが許す。」
「あはは。」
「…ダイガクではやってないの、本づくりは。」
「んー…文芸部が、すっげえ最新機器だらけの、ピカピカの部室で、幻滅した。会誌ももうデータにしちゃってて、紙媒体やってないんですよ。エコなんだって。泣ける。」
「アンティークすきだからねえ。久鹿は。」
「です。」
「…今日はどうしたの。」
「学祭のチケット売りに来たら、根津が頭ペンピしてたから、カンチョ-。」
「…なんつーたとえよまったく。…ああ、すりあがってるんだね。あとは製本か。」
久鹿はうなづいた。
「二人だと、早いスわやっぱ。…ちーと、根津がねばるけど、いいスよね?」
「お泊まり?」
「いや、そこまでいかんとオモ、今6時っしょ、8時、しくじっても9時には終わります。」
「…でも小口切るデショ?」
「きらないかとおもって。…裁断機つかおうかな、と。」
「うーん…まいいけど、怪我しないでね。」
「りょーかい。」
「…紙の新刊かあ、いいね、やっぱり。楽しみにしてるよ、久鹿、有難う、手伝いにきてくれて。…根津、いろいろ聞きなさい。電話番号とか、暇な曜日とかな。」
「ははは…」
根津はひきつった笑いを浮かべた。
+++
紙を折りながら、久鹿は訊ねた。
「…冴はさ、学校では、どんな子?」
根津は折った紙の折り目を湯のみ茶碗を転がして平らにつぶしながら、うーん、と考えた。
「…いつもなにやらぼんやりしてますよ。…なんか考え事してて。それが、教師にウケなくて。いじめられたりして。」
「…ああ、そうなんだ。」
「…何考えてんですかね。…みんな恋煩いだと思ってるみたいですけど。まあ、教師も含めて。」
「そうなの?なんだろね。…冴は、イヤなやつ?」
根津は首をふった。
「いいやつですよ。優しくて。ケンカしないようにすごく気を使ってて…。窮屈そうにしてます。」
「…そうなんだ。…モテる?」
根津はうーん、と考えた。
「…モテるんだけど、本人、女と口きかないので、一切。」
「…そうなんだ。」
「ええ。…男とはべたべたですよ、藤原とか、立川とか。」
「…へえ?どんな感じ?」
「うーん、月島は基本、鷹揚だから…。どっちも友達扱いなんだろうけど…立川はすごくべたべたさわってますよ。ついにチュ-禁になったくらいで。」
「立川君チュ-してたんだ。」
「してましたね。禁止になりましたけど。」
「藤原君は?」
「藤原はね、我慢してます。我慢してるので、立川をみると腹がたってしょうがないらしい。」
あっはっは、そりゃ可愛いねと言って久鹿は笑った。
「…うーん、実は冴にね、いつも、友達つれておいでって言うんだけど、…いやがるんだよ。…チュ-されて嫉妬されて…恥ずかしいのかな?」
根津は首を振った。
…よく晴れた風のない週末、ショッピングセンター帰りの公園で、くすくす何か談笑しながら仲良さそうにアイスクリームを食べていた、あの久鹿と冴の幸せそうな姿が自然と思い出された。
「そこはまあ、ともかくとして…多分、久鹿さんと、二人でいたいんじゃないんですか?…だれにも邪魔されずに、ただ二人でいたいんだと思いますよ。」
すると陽介は言った。
「…それがね、俺にはわからない。」
根津は苦笑した。
「…久鹿さん、久鹿さんは…まあ、唯我独尊でいいかもしれないけど…月島は…あれは尽くす男だから…立川がいれば、立川がいじめられてないか気にしなきゃいけないと思ってるし、藤原がいたら、藤原が拗ねてないか気にしなきゃいけないと思ってるし、俺がいれば、俺が久鹿さんのこと何か言い出すんじゃないかと気が気でないし…須藤がいれば、もう少し藤原や立川に気を使ってやれって言われるんじゃないかと思って余計気を回すし…それがダブルでいたりすると、立川と藤原が両方元気でいられるようにしたいし、俺も須藤もごまかしたくないし、…いろいろ気をつかうんですよ。だからそういう煩わしさからすべて解放されて、久鹿さんのそばでくつろいでいたいんですよ。そうしていれば、久鹿さんのことだけ考えていればいいでしょ。好きな料理でもつくって、うまいコーヒーでもいれて、久鹿さんの顔見て…久鹿さんが笑うことだけ考えていればいいんだから。そういう時間が、奴にとっては、楽だし、幸せだし、ほっとできるんですよ。…そのくつろぎの時間を、1分だって邪魔されたくないんですよ。」
久鹿はふうん、と言ったきり、黙り込んだ。
折りが終わって、丁合に入った。崩れないようにつみあげ、そして綴じに入った。
戸棚から、巨大なステープラーが登場した。
冊子がバスバスと綴じ上げられていった。
綺麗に折り目をつぶしなおして、表紙をつけた。
「…はみ出たぶん、どうしますか。」
「…職員室のそばの印刷室に、裁断機があるんだよ。…立ち入り禁止だけど、まっ、だれもいないと思うし、少し糊が安定したら行こう。」
「…久鹿さんは、カッターでおとしてましたよね、一冊ずつ。」
久鹿はうん、でもあれ、難しいから「初めて急に」は無理だし、俺一人で全部はできないよ、と言った。
根津は言った。
「…一冊だけでいいので、小口落とすところ、見せて下さい。」
久鹿は、しょーがねーなー、という顔になった。戸棚からカッター台と定規とカッターを出した。適当にかわいたのを一冊だけ取ると、ありきたりなカッターナイフで小口をシュッシュッシュッと3回のカットで無造作に落とした。それから天地も同じように落とした。最後に天を落としたとき、切り落とした端がピンと綺麗に飛んだ。
…神業、に見えた。
できた本を「はい」と根津に手渡した。
めくると、大好きな装飾模様のなかに、根津の文のタイトルが書かれていた。
…何と言えば良いのかわからない。
夢、…みたいだった。
「…去年入っててくれれば、全部教えたんだけどね。」
久鹿が不服そうに言った。
根津は笑った。
…絶対無理だそんなの。…きっと俺は気が狂う。
そう思った。
…残りの本をかかえて、二人で裁断へ向った。