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3 才能の土曜日

 昨夜、陽介が作業に没頭していたので冴は先に休んだが、どうやらそのまま陽介のほうは徹夜したらしい。朝起きると、ベッドの隣はからだった。休んだ形跡もなかった。

 冴はベッドの中で伸びをして起き上がった。カーテンをあけて光を入れ、そして窓をあけた。冷たい朝の空気が流れ込む。陽介の好みで着せられているサテンのパジャマを脱いで、服に着替えた。寝室から出るとコーヒーの香りがした。

 ダイニングへ行くと、陽介がコーヒーを飲んでいた。徹夜明けの顔をしていたが、表情は穏やかだった。冴の顔をみると、微笑んで、コーヒーを注いでくれた。料理はできないが、前の恋人の教育で、とりあえず、コーヒーだけは「ちゃんと」いれられる陽介だ。

「おはよ。」

「…おはようございます。」

 軽くチュッとキスを交わして、カップを受け取る。

「…作業は?」

「ん、完成。試し刷りしたよ。そのへんにおいた。見て。」

 テーブルのすみに、チケットが出来上がっていた。大正モダン、みたいなレトロなデザインの表、裏は緻密な装飾紋様。

「…きれいですね。」

「がんばったろ?…これで肩の荷がおりたわ。」

 陽介はそういって、肩を自分でもんだ。

「…もみましょう。」

「いいよ。おきたばっかじゃん。」

「…いいから黙ってもまれろというのに。」

「…どういう俺様だよ、お前って。」

 呆れる陽介に少し笑いかけて、冴はカップを置くと、陽介の後ろに立ち、丁寧に柔らかく肩をほぐしてやった。

「…意外な特技あるね、冴は。」

「…お袋が肩もみ好きでしてね。」

「へえ…あーうーん、気持ちいい…きゅー…」

 肩や首、背中、腰までほぐしてやって、陽介をすっかり昇天させると、冴はこめかみに片一方ずつ両方キスしてやってから、カップをひろいあげて調理台へ向った。冷蔵庫から材料を出し、鍋にお湯を沸かし始めた。

「はふー…冴、すごーくあったかーくなってきたよー…きもちいいよー…」

「気持ちいいでしょう?…それは俺の愛のエネルギー。あなたの体をめぐり、力を供給しますよ。」

 冴が冗談で言うと、陽介は信じたらしく、真面目に呻いた。

「うーんありがとぉ…愛してるよ~冴~」

 陽介は食卓に突っ伏して、足をばたばたさせていた。

 …俺ってそんなに肩もみうまいのか、とちょっとびっくりした。


     +++

 二人で朝食を食べたあと、散歩がてら、出かけた。

 まだ朝早かったが、電車は動いていた。

 二人は朝日のなか、電車に揺られて、わき水の綺麗な公園へ行った。

 落葉した木々のなかに照葉樹だけが緑を残し、ぽつぽつとのこった紅葉の木の隙間から、湧水池と川がのぞいていた。

 どれだけ臭いをけしてもかすかにドブ臭い市街地と違って、そこはとても空気が澄んでいた。朝日に洗われた風が、せせらぎの音を耳に運んでくる。

 二人は静かに連れだって、その遊歩道をゆっくり歩いた。

 どちらも口にはしなかったが、冴の親達の実家のある、美しい山の自然を思い出していた。

 こういった場所で「目をひらく」と、冴には不思議なものがいろいろ見える。

 …水を覗き込む陽介の周りに、色々な色のふわふわした丸い光の玉が、まるで甘い水に集まる蛍のように寄って来たり…ゆっくりと水の中を、小さなうつくしい女が流れていったり…。陽介の体から溢れるほんのりと金色がかった光が長く尾をひいて、悪戯に冴の首や手に巻き付いて来たり…。そのたびに、なにかこの上もなく香しい花の薫りがしたり…。

 小一時間さまよっていたが、やがてエネルギーの充填もすっかり済んだころ、陽介が言った。

「…なんか、元気でるね、こういうところに来ると。」

「…洗われますね。」  

「…どっかで茶にしようか。」

 陽介はそういって時計をみると、こう付け加えた。

「…少しのんびりしても、開会式の鼓笛隊の演奏に間に合うよ、中学部の文化祭。」

「そうですね。…甘いものにしましょうか。朝だし。」

「いいね。…あっ、いつものコーヒー屋の向い、プリンアラモードが新しくなったんだよな。あそこ行こうよ。学校も近いし。もうじきあく時間だと思う。」

「いいですよ。」

 二人は電車に乗って、市街地にもどった。

 冴は陽介とこうやって歩いているときは、まったく女と一緒にいる気分で、ときどき、陽介が男であることを思い出しては著しい違和感に驚く。男というのはこういうものじゃない、と思う。冴にとっては男というと、普通なら友達の須藤や根津や…極端な例では、自分の父親のイメージだ。その父親が陽介と恋仲だったことを思うとますます頭がこんがらがってゆく。

 …山盛りのプリン・ア・ラ・モードを別としても、だ。

 …手をのばして、口の横についたクリームをぬぐってやると、陽介は「ついてた?」と照れた。

「…おいしいですか?」

「うん、おいしい。」

 そりゃよかった…と冴は思った。

 多分、下手に分類しようとするからイケナイのだ、陽さんは陽さんでいいではないか、このひとは特別な性別なのだ、…と思いきる。

 土曜日の道はすいていて、車もまばらな店の前を、なにかふかふかもこもこしたものが大軍で通り過ぎていった。…冴はこれが普通なので、まったく気にしたことがなかったのだが、普通の人にはこれが見えないらしいと小学生の後半くらいで気がついて、青くなったことがある。すいている通りをとおりすぎるもこもこを、冴は「羊」と心の中で呼んでいたが、顔も角もないそれが、じっさい何というものなのかはしらない。 

 小学校に上がる前に、机の下をなにかの行列が歩いているのを見た。そのとき、なぜか「落ちそうな感覚」があって、とても恐ろしく、生まれて初めて人に…父親に…相談した。当時、滝行を日課に、山伏のまじっての山歩きを月イチスケジュールに、そのうえ年に一回は余興で火をわたったりしていた事情通の父は、眉をひそめて「…それは見るな。」と言っただけだった。

 冴は高所恐怖症とは縁がないけれども、あのときの「落ちそうな感じ」は思い出すと今でも恐ろしい。それはまったく桁違いの高さだった。高層ビルなど、まだ手緩い。たとえば高い山、それものぼるのがきわめて困難な崖の上のてっぺんのせまいせまい空き地…そんな場所にいるかのようだった。風さえ吹いているように感じられたものだ。

 後に父が教えてくれたのだが、そういうものの世界は、一層上の次元にあるのだそうだ。「だから飛び下りれば帰ってこられるぞ」とのことだった。…そういわれても、あんなところから飛び下りるのは、人間には絶対に無理だと思った。

 それ以来、イヤなものは見ないようにしている。

 冴は陽介の光が見えるのと同じように、本当は自分の光も見える。けれどもそれは往々にして…とてもエゴイスティックな現実を赤裸々に冴につきつけてくるので…冴はなるべく見ないようにしていた。見なくてもどうせわかっているのだ。わざわざ目で見て落ち込む必要もなかろう。

 父いわく、冴がみている領域は、「下の品」なのだそうだ。「もうすこしアゲろ」と、一緒にいて何か見てしまったときに、よく言われた。その「アゲる」実感は、父がなくなった今も、実はよくわからないままだ。

 平日は特別事情がない限り、極力ものをみないようにしていた。勿論それでもうっかりしていると、見てしまうこともある。逆に休みの日は、気がむけば積極的に目をひらいてみることもある。そういう自分を否定的に考えてはいけないと思うからだ。

 陽介が支払いをして、二人は店を出た。外に出ると陽介のうなじのあたりをめがけて、図鑑には載っていない、やたら長くて羽根も足も多いトンボが飛んで来た。冴はさりげない手付きでそれをぱっと払い、ついでに陽介のパーカーのフードを整えて直した。


     +++

 そのまま歩いて、学校ドームへいき、冴は初めて中学部の門をくぐった。幼稚園からS-23の生え抜きの陽介と違って、冴は今年の初夏に高等部に編入したばかりだ。…物珍しく辺りを見回した。

 陽介がその昔、下足箱の鍵を外しまくったという生徒玄関の隅から入ると、玄関ホールには一面にパネルが出してあり、学習成果が展示されていた。美術の作品、書写、俳句や短歌のきれいな短冊…。冴のかよった田舎の中学校とは、規模が違った。そもそも、玄関の大きさからして違う。ホールには器楽のテストと思しき録音が延々流れていた。古いイギリス民謡の美しい旋律が繰返される。時にはギターで、ときにはリコーダーで、ときにはオルガンで、ピアノで。…そしてその合奏で。いい演奏になると、綺麗なうす布の細長い端切れのようなものがどこかからひらひらと飛んでくるのが、冴には見える。それらは絡まることなくひらひらと混ざりあって、明るい絵柄の水彩画の回りに集まったりしながら、またやがて風にながされてきえてゆく。

「…少し見る?」

「あ、いえ、別にいいです。知合いがいるわけではないし。」

「じゃ、帰りに気が向いたらね。…俳句とかなかなかいいよ。ストレートで笑える。」

 大ホ-ルはこっちだよ、と陽介が教えてくれた。

 ギャラリーから見ようか、といって、階段へ案内してくれた。

 上から見下ろすと、大ホールでは開会式がはじまっていた。聞いたことのない中学部の校歌のあと、馴染みのドーム校歌が鼓笛隊のマーチングで披露された。…確かに須藤が言う通り、高等部のブラスバンドよりレベルが高かった。

「…中学部は、校歌上手いですね。」

「やる気あるだろ。高等部とちがって。ここは伝統的に音楽科の教師衆がいいんだわ。人数も多い。」

「…そうなんですか。」

 それが終わると、舞台の設営のために、少し間がとられた。

 陽介が言った。

「…壁画、ここいらに貼ってあるのがそうだよ。」

 いわれてみると、巨大なパネルの裏面が目の前にある。今まで発表を見るのに邪魔で、無意識にちょっとさけていた。畳二枚分ほどもあるだろうか。向側のパネルをみると、たしかに表面は絵が描いてあった。それぞれパネルのとなりに、年数がかいてあり、「特賞」の文字がレタリングされていた。

 パッと見、ならんだ巨大なパネルは二つのランクにおおまかにわかれていた。

 目に鮮やかなものと、ぼやけたもの…冴にはそう見えた。

「…2年前があれだね。左が3年前。そのさらに左が4年前。」

 陽介が指をさしておしえてくれた。

 …どれも鮮明に目にとびこんでくるものばかりだった。

 今年の物も一緒に並んでいるのだが、圧倒的にレベルが違う。その数枚があるばっかりに、まるでほかのものが小学生の作品のように見えた。…たぶん、仕上げの丹念さが段違いに緻密なのだ。構図もよかった。

 …そして冴の目には、その3枚のパネルが、うすく光を放っているように見えた。

「…右の、似てますね。去年の特賞か…。」

「うん、似てるね。あれを3年間みて育ったから、きっと影響を受けちゃったんだろうね。…たしかに、立川くんのやつ、丁寧にしあげてある。相当ワンマンな奴が一人で泣きながらがんばったって感じはいなめないけど…でもその分、全体に統一感があるよ。…中学生のレベルじゃない。高等部に貼ってもかなりいいセンいくんじゃないか?高等部では描かないの、彼は。」

「…スランプらしくて。絵筆を折ると言ってます。…気になる下級生がいるとかで…そいつに技術的に追い越されたと感じているらしい…。真似してたあいつが本物になって、俺は偽物になった、なんて言ってました。」

「…ふーん…。勿体無いね。こんなに丁寧な仕事できるのに…。他人なんか気にすることないのに…。いずれにしろ、まだまだこれからだろ、高校生なんだから。いくらでも挽回できるさ。でもやめたら終わりだよ。そもそもやめて代わりに何をするって言うんだ。」

 冴はうなづいた。…人生が学校と同時に終わるのであれば、何も考えずに済むけれど…、と思った。…残りの人生は、何もしないのであればあまりに長い。…長くて、つらいだろう。冴は親たちを見ているとそう思ってしまう。父の死を早過ぎるといってくれた人もいたが、…あの父の苦難をすべて見てもはたしてそういうだろうか、と。

 陽介は冴の肩をポンとたたいた。

「…せっかくだから、写真でもとっていけば。」

「そうですね。」

「冴も入れてとってやろうか。」

「…お願いします。」 

 写真を撮り終わると、合唱コンクールが始まった。これまたなかなかレベルが高かった。二人はしばらくそれを聞き、飽きたあたりで大ホールをあとにした。

 玄関ホールで展示された絵をみながら、陽介が言った。

「…絵とか、嫌いじゃないけど、…うまくならなかったなあ、俺は。うらやましいよ、上手いやつ。」

 冴はうなづいた。冴も美術は並ぐらいだった。下手というほどでもなく、上手いとほめられたこともない。中学の教師には「おまえ自画像きわめてみたら。若いのに味がでてる。」とかからかわれたものだ。そういいながら教師は冴の描いたピーマンのデッサンに大きくBと赤でスタンプをおしていたっけ。

「…もし…それが天からあたえられた才能だったら…やめるべきでない。その苦しみを生き抜くことが、…生まれてきた意味かもしれないから。」

 陽介は冴を横目で見た。

「…コワイこというね、冴は。」

「…親父が言ってた。俺じゃありません。」

 陽介は顔を向けた。

 冴は見つめ返した。

「…一番するべきことのために、泣いたり笑ったりしたいと思いませんか。」

「…一番したいことのために、泣いたりわらったりしたいよ。」

「それは、突き詰めると…本来は一致しているものらしいです。」

「それも直人さんが言ったの?」

「ええ。」

 陽介は挑戦的に言った。

「…本当にそうなら、いいと思うけどね。」

 冴は確信を持って言った。 

「…そうですよ。親父は若い頃はなかなか気付かなかったと言ってましたけどね。…晩年のことは、陽さんもよく知っているでしょう。」

 …晩年、父は、陽介と暮していた。

 陽介は少し苦笑した。ふと、もの悲しい色がその目をよぎり、それを冴から隠そうとするかのように、展示品に目を戻した。

「…才能を持って生まれて来た奴は、…そりゃ勿論、当人にしてみりゃ余計なお世話なんだろうけど…その才能に殉じてほしいと思っちゃうよね、俺は。自分の才能のために、できることすべてをしてほしいもんだ。せめて、ふりだけでも。…それが才能のない人間に対する礼儀だよ。」

「…人間は、駄目になる権利さえ持っているので…選ぶのは本人ですが。…でも、陽さんのいいたいことはわかります。」

 二人は玄関を出た。

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