2 剃髪やら盗難やら
「あーあーあーもう一文字もでてこねーっ!!」
「そうか! じゃ俺が代わりににその坊主頭を掻いてやる。一度やってみたかった!」
「ぎゃあああああやめろーーっ!!」
藤原が根津の頭をかいぐりかいぐりするのを見て笑っていると、後ろのほうで壁画制作チームがざわざわ騒ぎ始めた。ふと振り向くと、口々に「盗まれた」「盗まれた」という言葉が飛び交っていた。
何食わぬ顔で須藤が確かめにいった。
少しして戻って来て冴の隣にすわり、ひそひそ教えてくれた。
「…イッコ下のクラス、塗料をやられたらしい。。」
「1年か。…だが塗料は支給制だろう。申請すればもらえるんじゃないのか?」
「そうなんだよな。でも毎年なんだぜ。」
「なんで。」
「…さあね。妨害とかっていうけど、どうだかな。…タッチーに聞くなよ。ヒスるから。」
「…立川は毎年それに悩まされたってことか。」
「そういうこと。」
「…立川って、絵そんなに上手いのか?」
「さああ。どうなのかな。俺は絵のよしあしはわからん。でも壁画は毎年あいつの描いたやつが全学年を圧倒して特賞をとってた。もう、他のクラスのとは迫力が違う。」
「審査は学年別じゃないのか?」
「…学年別審査の他に特賞っていうのを一つきめるんだ。保存版だな。」
へええ、と冴は思った。是非見てみたいものだ。
「特賞は5年間保存だから、中学部の大ホールへ行けば見られるぜ。他の選外は翌年塗りつぶされてくけどな。…文化祭の日に中学部に見に行ったらいいじゃないか。2年前、3年前、4年前のがそうだ。」
「なるほど、いい考えだ。そうしよう。」
是非陽さんと…と思った。悪くないデートだ。
壁画制作班はまだもめている。塗料の置き場所をどうするべきかについてだ。なくすと、支給されるまで一日ばかり作業がストップするらしい。そんなことになったらとても間に合わない、などと女子が喚いていた。どっかにかくすべきよ!…etc…
「…しかし、壁画班は、ある意味熱いな。」
「…タッチも描くときはあんなだ。2年の時一緒のクラスだった。」
「一緒に描いたことは?」
須藤は首を振った。
「…もし一緒に描いてたら、俺は立川とはつるんでない。俺は中学んときは鼓笛隊にいたしな。…一緒に壁画かいたら、もれなく絶交だよ、立川とは。」
「そんなに熱いのか、奴は。」
冴はあきれた。
須藤は肩をすくめた。
「…ゲイジュツっつーのはそういうもんなんじゃね?」
+++
「中学部の文化祭?…え…いいけど、どうして?」
陽介は気乗りしない様子で言った。
「立川ってやつが壁画アーティストだったようで…友達なので見ておきたいと…。俺は高等部からS-23編入だから、知らないので。中学3年間特賞をさらい続けたらしいんです。」
陽介は意外そうにした。
「えーっ、そうなの?待てよ、冴の学年は…2コ下だから…俺が3年のときの1年だよね?…そうか、そういや、1年がとったよ。へえ、あれ描いてるやつが、例の結婚運のタチカワくんだったの。」
「そうらしいです。」
「ちょっと構図とかがかわってるんだよな。みんなと同じようなテーマ展開で、同じようなもの描いてるのに、みせかたが上手いというか…。へえ、あれがタチカワくんかあ…。」
「大ホールに3年分あるらしいです。土曜日に買い物の前にでも、ちょっと見に行きませんか。」
「うん、いいよ。」
陽介は今度は快く承知した。
「陽さん、中学はS-23の中学部ですよね。」
「うん。」
「懐かしくないですか?」
「うーん、あんまりいい思い出ないからなあ。」
「そうなんですか。」
「俺中学んときは不良ですから。」
「えーっ。」冴は面白がってちょっと目を丸くした。「本当に?…ケンカしたりしてたんですか?」
冴はそういう意味では大変な不良だった。覚えたばかりの武術を使いたくてウズウズしていたし、父親からは実践してしっかり体に染み込ませるよう言われていたし…、なにしろあの親父だから、いち・殺さない、に・障害残さない、さん・つかまらない、それくらいは配慮しろ、としか言われていなかったし…もうケンカと聞けばすぐさま駆け付けて乱闘に参加するような猛者、だったのだ、冴は。ちょっと夜にドームから出て歩けば、むこうではケンカなんていくらでもできた。
「…んーん、そういう不良じゃないの。もっと陰湿なやつ。」
陽介は面白そうに言った。冴の想像が実像と違って、それが面白かったらしい。
「…陰湿って…他のクラスの絵の具盗んだりとか?」
陽介はあははと笑った。
「ちげーよ。まあ、いろいろ…ああ、当時の戦利品みせてやろうか。」
「…戦利品?」
陽介はそういうと冴を自分の部屋に連れて行った。
そして押し入れの奥から、菓子の箱を引っぱり出した。そしてホコリをぱっぱっと払い、フタをあけた。
中には小さな数字錠が20個以上入っていた。
「…これは…」
「…中学部はさ、下足箱が電子錠じゃないわけ。まだ中学生くらいだと、あれ使いこなせねーのよ。だけど鍵つけたがる奴とか親とかがいてさ…そういうときはこの古風な数字錠を学校生協で買って使うわけ。」
「…」
「ばっかみたいじゃね?かっこつけて。たかだか学校に何万の靴はいてきてんだっつーの。ことごとくブランドの靴がはいってて笑っちまったぜ。」
「…鍵をはずすのが趣味だったんですか?」
「教室のプレートもよく盗んだな。」
「…あんた、不良つーより、問題児じゃないですか…。」
「プレートは邪魔だから返したよ。…鍵も一時期100個ぐらいあったけど、一回かえしたんだよね。だから今手許にあるのはこれだけ。」
「なんだってそんな欲しくもないもの盗るんですか。数字錠はなんとなくわかったけど…プレートなんかどうして。」
「なんだって1-Bとか3-Cとかいう記号が俺にレッテルされなきゃいけないんだよ、とかそういうことにものすごく腹がたった時代だったの、俺的に。」
冴はあきれた。どうやら陽介はまがりなりにも政治的というか哲学的思想犯だったらしい。その些細な犯罪で彼の哲学を匿名で主張していたのだ。…多分、だれも気づかなかったと思うが。
「…よくばれなかったですね。」
「俺、学校では目立たない地味キャラだからね。真面目で成績よくて、人付き合い悪くて、内気な少年でとおしてたから。そういう奴、冴のクラスにも2人くらいいるだろ。…そいつらだってキスしたら意外とちゃんと舌使うかもよ?」
陽介はそう言って楽しそうに冴にキスをした。…一瞬舌が濃密に絡みついて、すぐに離れた。そのあと「戦利品」をにこにこと箱にしまうと、その箱を大事にまた押し入れに隠した。
…冴は、うちの親父がこの戦利品を見たらなんて言うんだろう、と思わずにいられなかった。
冴の父親は、ついこのあいだまで、陽介の護衛と言うかお世話係というか、…実質は恋人として、陽介と一緒に暮していた。
情けないといって嘆くだろうか。セコいといって怒るだろうか。それとも、陽ちゃんてほんとやることがかわいいよね、ああくすぐったいっ、とでも言って抱き締めるだろうか。(最後のは想像力が途中でギブアップした。)
いずれにしろ何らかの意味で衝撃をうけたであろうことは間違いない。
+++
「駄目だっ、もう駄目だ、俺は頭を丸めるぞ!」
根津はついにノートをパンと閉じて言った。
「…その頭、まだ丸められるのか?」
思わず冴が聞くと、根津は言った。
「スキンヘッドだ。いっぺんやってみたかった。学祭だしな!」
「なんだ刈りてえだけかよ。」
立川が言った。
「…俺もスキンヘッド一度やりたい。」
冴がぼそっというと、立川と根津は一斉に立ち上がった。
「駄目だ!」「いかん!それは許さん、いや、許されん!!」
「髪型にあきたなら俺の叔母チャンが美容師だから、タダでやらせるぜ!いつでもいえや! でも火曜日は駄目だ、美容師組合の一斉休日だから。」
「タッチのオバさんて美容師なの。」
へーといって根津が訊ねた。
「うん。…多分、スキンヘッドもできると思うけど。」
「いや、自分でやるからいいよ。別に。」
冴は少し考えて言った。
「…根津、自分で剃るの大変だぞ。後ろのほうとか、手伝ってやろうか?」
「!」「!」
根津と立川は驚愕に目を見開いた。
「…な…なんかあったの?…月島…?」
立川がおそるおそる言った。
冴は不思議に思った。
「?…なんで。…剃刀でぞりぞりとやってみたいだけだ。俺は刃物が好きなんだ。」
「刃物って…たかが安全剃刀…」
…T字型じゃなくてI字型だ、と思ったが、まあ、怖がらせるのもよくないだろうな、と冴は思い、いつもT字型なふりをした。
「ああ、好きなんだ。…早くヒゲ生えないかな-と期待してる。」
「や! それは駄目だ」「いかん、月島、いかんぞ!」
二人は口々に止めた。
「お前のこの顔にヒゲなんて…。神への冒涜だ。」
「この滑らかな白い肌を突き破ってヒゲが生えるってか?! 駄目だ、俺はそんな悲惨な出来事はとても耐えられない。せめて俺とクラスが別々になるまで待て。絶対だぞ!」
立川はそういいながら冴のすべすべした頬や顎をなでなでとなでまわした。
…冴は本当に剃刀好きで、自宅…というか、下宿、では、隙があったら可愛い家主さんの風呂を急襲して体のそこここをつるつるに剃ったりして遊んでいる。家主さんは別に「ああん冴なにすんのー」とか言いながらも大抵の場所はじっと大人しく剃られてくれる(某所だけは断られた)。それに、ちゃんと「冴はいつヒゲはえるのー?はえたらどんな二枚目になるのー?」とひげが生えるのを一緒に心待ちにしてくれている。
「…マテといわれてもな。こればっかりは。」
「いや、なせばなる!」
冴はため息をついて言った。
「で、いつやる、根津。」
「…じゃあ放課後。ドミに来いよ。」
「まてーっ、俺もいくぞ! ふたりっきりでそんな怪しい遊びさせないからなーっ!!」
「…立川、考え過ぎだ、それは。」
冴があきれて言うと、根津も言った。
「タッチ、俺は月島とは出来てないよ…?…だって月島っていいの見た目だけだし。」
「失敬な。俺はこんなに親切で争いごとがきらいで心が広くて好き嫌いもないのに。」
「それ要するに、事なかれ主義でおおざっぱで節操もないってことだろ…?」
「ますます失敬な。」
だんだん漫才になってきた二人を、細い目になってにらみ、立川は言った。
「…藤原に言うからな、オマエラ。」
二人は顔を見合わせた。
「そこでどうして藤原がでてくんだか。」
「…藤原なら俺の気持ちをわかってくれる。」
「やめれ。うっとおしがられるだけだから。」
「ふじわらーっ、月島が根津の頭剃りにドミいくっていうんだぜ?!」
根津の制止をふりきって立川が叫ぶと、前のほうで大工作業に参加していた藤原がなんだとう?!と振り返った。
「俺にも剃らせろネヅ-っ!!」
…藤原は立川よりもろむしろ冴の心がわかる男だった。
+++
「ドミ来たのって初めてだな。」
「へええ、こんなふうになってんだ。」
藤原、立川と冴は玄関ホールで訪問者名簿に記名して、少し待った。そのあいだに、冴は家主さんに少し遅くなると電話した。やがていろいろ道具を調達した根津がやってきた。
「集会所が開いてるっていうから借りた。いこうぜ。」
4人で集会所へいき、テーブルを少し寄せ、床にシートを敷いて、上に椅子を載せた。根津をそこに座らせて、眼鏡をとった。
「…一応、クリームつけっか。」
「剃刀負けすると後がツライからな。頭だし。」
「オマエラ、切り傷つけんなよ、人の頭だからって。」
「安心しろ、俺にかぎってそんなことは決してない。」
なんだかんだいいつつ、立川が根津の衿にタオルを巻いたり、クリームをぬったりして、第一刀をいれた。
「うわー、すげーっ」
「おい、すみから順にやれ。」
「わかってるって、真中を最後にのこしてモヒカンだろ。」
「俺の頭なんだぞーっ!」
4人で騒ぎながら楽しくやっていると、何事かとききつけて何人か寮生が入って来た。3年は見て大笑いし、2年は写真をとった。
1年の男子が2人ほど入って来て藤原に話し掛けた。藤原は剃髪を離れて、1年の子たちと話を始めた。結局、冴と立川で仕上げた。
「おおっ、きれいさっぱりだ。美しいぞ根津!」
「わーい、和尚さんだ和尚さんだ!」
集まった全員で記念撮影のあと、後片付けをし、買ってあったおやつをみんなで食べた。
「何日くらいもつのかね、これは。」
「2-3日がいいとこだろ。あとはだんだん、ビロードから毬藻、海胆になって、あとは普通をめざす。」
「…いい手触りだ。すこしざりっとするな。」
「…月島触り過ぎ。」
立川がぶーぶー言うと、藤原が言った。
「…月島、1年生は今日のお前見てがっかりしてるぞ。」
「なんで。」
「もっとクールな男だと思われてたから。」
「そうか。じゃあ俺が家で葡萄色のエプロンつけて飯作りしていることもおしえてやるがいい。」
「飯はいいんだよ。料理できる男はかっこいいんだよ。」
「得意料理は残り物料理でもか?」
「…ビミョ-だな…。…こいつら俺の中学んときの、部活の後輩なんだ。」
「そうなのか。…ハジメマシテ。」
2人の1年生は「こんちはっ」と元気に頭を下げた。
「…何部だったんだ。」
「野球部。」
「そうなのか。しらなかった。もうやめたのか?」
「…俺はマルガリがいやでやめた。」
「どうして。かっこいいぞ。」
月島が力説すると、立川がけらけら笑った。
「やめろよ月島。藤原のやつ丸刈にしちゃうぜ、お前にそんなこと言われたら。」
「…しねーよ!」
藤原が怒って言うと、立川はますます笑った。
丸刈の後輩達が藤原に言った。
「先輩、学祭はなにやってんすか。」
「ガッキューやってるよ。今日はパネル作ってた。おめーらは?」
「おれら壁画班なんすけどぉ」「大変っす。絵の具がなくなっちゃって。」
3年が冴たちの菓子を勝手に食べながら言った。
「…また今年もかよ。」
別の3年が言った。
「俺らんときも盗まれたわ。…あれって、丸一日作業がストップすんだよな。」
もう一人いた3年が言った。
「…勝ちたくて、他のクラス妨害してるんだってもっぱらの噂だったけど、どうだったんだか。…何しろ犯人もわからんし。」
1年が言った。
「使い切っちまわないと申請できないでしょ、だから、使い過ぎたりして足りないとどうしても作業がストップするじゃないすか。どっかのクラスから盗めば、自分のところはそのまますすめて、代わりによそをストップできるんっすよ。…なくなったの、青なんすけど、…E組に偵察に行ったら、やたら画面に青が多くて…。」
もう一人の1年も言った。
「…1-Eは怪しいんですよ、駿河タイキって奴が仕切ってて、そいつすげー絵が上手くて、…なんか、エアブラシ…コンプレッサ…?…とかつかってて、もう、画面が、ほかのクラスとぜんぜん違う。でも、あれじゃ絶対に塗料たりない…。」
「…その割にはすすんでるんっす。」
「でも、証拠もないし…」
3年が、まあ、毎年のこったからな、と二人を諌めた。一日待てばまた支給になるんだし、と。そして言った。
「俺が中2のときかな、一度だけ犯人がでてきたことがあって…それがさあ、よくいるだろ、成績も悪くて、ぱっとしなくて、でも悪いことはしない、いや、そもそもできないってタイプの女子。そういうやつで…みんなびっくりさ。」
「…目立ちたくてやったんですか?」
3年はくびをふった。
「…話をきいたらこれが悲惨でさ、その子、掃除をさぼるのが下手で、一人になっちまったんだと、掃除当番。それで仕方なく一人で掃除してたら…事故で塗料のビン落としちまって…。」
「…割ったんですか。」
「うん。…その日、教職員研究会の日でみんなとっとと下校させられていてだれもいなくて…。それで、怖くなって…。とてもみんなに言うことは出来ないと思いつめて、隣のクラスのをビンごと盗んだんだと。」
「…」
「…そんなことしたってしょうがないのに…」
「勿論。…隣のクラスに、そのビンうちのクラスのにまちがいないっていわれて、ほら、広口ビン、持ち寄りだろ。けっきょく追い詰められてさ、白状したんだけど…。
でも、中学のときの壁画作業ってみんな異常だろ?塗料のビンわっちゃいましたごめんなさいなんてとても言えない雰囲気だし…。
ましてその子、そんとき掃除おしつけられて一人だったんだぜ。腹いせにやったのかなんてクラスのスター人格の奴が一言でも言おうもんなら、本人がいくら否定したってだれも聞かねえし、…もうそうなったらふんだりけったりだろ。怖いよ、やっぱり。だいたいスター人格のやつは掃除さぼるのうまいし、その罪悪感から愚図を責めがちだしな。
…なにしろその女子が、クラス全員が認める、地味でお人好しで愚図な女子だったから、「あたし愚図だしみんな信じてくれるはずない、許してくれるはずないって思った」っていわれて泣かれると、みんななんにも言えなくなってな…。みんながそいつのことどう思ってたのか、その女子はわかってたってことだろ?なんかみんな後ろめたくなってさ…。
…その子、2学期のおわりに転校したよ。事件のとき、教師の介入がなかったことを親が怒って、学校側に申し入れたら、学校祭の諸行事は、そうした出来事を生徒間で解決していく訓練にもなっている、むしろ多くの生徒にとっていろいろなことを学び成長する良い機会だった、って言われて、娘のほうは納得したけど、親がキレたらしい。もう教育実験校で娘を実験動物にされるのは御免だと喚いて出ていったんだとさ。
…ほら、社会の標準に似せるために愚図キャラかならずクラスに一人まぜる、そのために必ず毎年一部外部入試を行なうとかいう噂あるだろ。まあ、実験動物っていうより、ストレートに、生け贄だよな、結果として。おかげさまで俺は学び、成長させていただいたってわけ。」
1年生は黙った。
藤原や冴は、とてもやり切れない気持ちになった。
空気が重くなったのを察して、3年は口調をかえた。
「…今まで、締切りに間に合わなかったクラスっていうのも、塗料がたりなくて未完ってクラスも、ないんだよ。ま、おおさわぎしないで、再申請すればいい、絵の具なんか。」
正しいことではないかもしれないが、そんなところかもな、と冴も思った。
…冴はふと、立川を見た。
…立川は恐ろしい顔になっていた。
+++
藤原と別れた後、冴は近くの駅まで立川と歩いた。立川はいつも電車だ。冴は普段は歩きだが、一区間でも電車にのれば早い。この時刻なら電車はまだ15分おきにくるはずだった。
「…月島、家で、大家さん飯まってんじゃね?」
「ああ、今日は向うも学祭準備で図書館に居残るといってたから、多分大丈夫だ。」
「そっか。」
「…おまえんち、親いるんだろ。」
「や、うちは共働き。でも親はいなくても大丈夫。」
冴は実家であれば多分立川を食事にさそっていたと思う。一人分余計に作るくらい、別にたいしたことではなかった。だが…陽介と二人の食卓に、他人を招く気にはなれなかった。陽介と二人っきりで、優しい時間を過ごしたかった…。その欲望は、残念ながら今ははるかに友情を上回っていた。
だが、冴はなんとなく立川が心配だった。
菓子を買い食いしたので、ファーストフードに寄る予算もない。
「…1年の駿河は…美術部員か?」
そっと尋ねると、立川は首をふった。
「んーん、違う。…でも知り合いだよ。」
「どこで?」
「…美術室のギャラリーとか、夏休み開けの玄関ホールとかでさ。」
「…」
「…学年違っても、部活違っても、絵に腕のあるもん同士は、それなりに知合い。…そんなもんだよ。」
「…」
立川は冴の顔を覗き込むと、笑った。
「…何心配してんの、月島。」
「…なんとなく。お前、いつもと違うから。」
「俺、ぎすぎすしてんだろ。…学祭前だからだよ。ただそれだけ。俺にとっては、学祭って、戦いだったから、ずっと。…優しいな、月島は。根津はあんなん言うけど、俺は、月島優しいと思うし、好きよ。…なんかいつも誰かに恋してるみたいで…光があるし。」
立川はそういうと、月島の肩にちょっと頭をくっつけて、すぐ離れた。
「…いいなー、月島んちの家主さん。俺も金あったら、月島のこと口説いて、一緒に住んで、飯つくってもらうのに~。」
「…駿河のこと、ものすごく嫌いなのか?」
「…家主さんとは、一緒に寝るの?」
月島が横目で見ると、立川はくすくす笑った。
「…怒るなよ。やだな~。…俺だったら一緒に寝るよ。男同士でどうやるのか知らないけど。…でも朝起きたとき、最初に見るのは月島の顔がいいもん。なんか、今日も一日いいことあるぞって気がするんじゃね?」
立川はそういって月島と勝手に腕を組んだ。
冴が黙っていると、立川は言った。
「…あいつの絵、俺の真似…だったらしいの。昔。」
冴は立川の顔を見た。
「…今は違うよ。あっちのほうがずっと上手くなった。…あっちが本物になって、俺は偽物。」
「…立川…。」
「…もう描けない。自分では、何も。…美術の時間は、課題があるからいいけど…。」
「…立川、偽物なんて、そんなことはない。」
「…目に見えるものが、鮮やかだとかウツクシイとか迫ってくるとか訴えるとか…そういう感性なんか、無くなっちまえばいいのにって思う…そうしたら、もう絵以前の話で…何も感じなくなって…」
「立川…」
「…楽になる。」
「…立川、そんな…根津だって書けないときは書けない。…それに、お前が偽物になるなんて、そんなことあるわけないだろう。お前はお前だろう?なにがあっても。」
立川は冴の腕に女のように抱き着いて、クスクス笑った。
「…才能の世界では、個性がカブったら、上手いほうが本物で、下手なほうは偽物。…もういいんだよ、月島。俺のピークは中学時代で、…もう、祭はおわったんだよ、多分。…そうだ、俺、月島の絵、描きたいな。かいてもいい?ヒゲが生える前に。心配しないで、ちゃんと綺麗にかく。そのくらいはまだ描けるんだ。」
「…まあ、そんなことくらいはいいが、べつに。」
「…それでもう、うちにある筆と絵の具捨てるわ、俺。学校の課題は学校においてあるやつで足りるし。」
「…」
駅につくと、立川は走って電車に飛び乗った。
冴は路線が違う。
ホームに残った冴を電車の窓から見て、立川はニコニコして手を振った。