陽炎、または猫と硝子玉。
真夏の朝のことだった。
遺跡の発掘作業に駆り出され、昼間は荷物や砂利を運び。
夜は夜で買い出しやらお茶汲みやらの雑用を押し付けられて、挙げ句最終電車に乗り遅れた。
とりあえずここで、とあてがわれたプレハブ小屋で夜を明かし、始発の電車で家に帰る、その途中のことだ。
的井由高は疲れはてた体を引きずり、眠気のあまり落ちかける目蓋を叱咤しながら帰路を急いでいた。
彼は大学生で、郷土史の授業を選択している。講師にも気に入られているので、その講師……箱守教授の手伝いとやらで簡単に呼び出され、駆り出されるのはいつものことだった。
だが今はとにかく疲れていた、早く自分の部屋に帰って、使い慣れたベッドで泥のように眠りたかった。
ふらつく足取り、背負ったリュックが無闇に重たい。
郷土史を学びたいというのは由高自身の選択だったし、近隣に史跡が見つかればそれを調べにいくのは苦ではない。
だが、今回駆り出された現場はいつもとは少し雰囲気が違っていたのだ。
新しく発見された古墳らしきものの内部探索。
それは割合よく見る案件だったが、蓋を開けてみれば全く別の……そして面倒な案件だった。
通常、古墳に埋葬されるのは身分の高い人間だ。
大量の副葬品と一緒に、小さな山のなかで眠る……その権利を与えられるだけの身分か功績を持った人物の墓。それが古墳だ。
故人と関係の深い者が一緒に埋葬されることもあるようだが、今回見つかったのは少々特異な塚だった。
丘陵が築かれているのに、中央に掘られた穴からは大量の人骨が…まるで投げ捨てられたかのように…折り重なった状態で発見された。
副葬品は周囲から四ヶ所、墓穴の底に一つ。
状況を聞いた教授は言った、「それは古墳じゃない」と。
そして手近にいた由高に声をかけ、現場まで引きずっていったのだ。
由高は嫌だった、行きたくなかった。
何故なら、由高には少々困った体質があったからだ。
幽霊が見える。声も聞こえる。
おまけに、迂闊に近寄ればもれなく幽霊が憑いてきてしまうのだ。
波長が合うのか何なのか、とにかく霊に好かれやすい。そんな体質なので、いわくありげな遺跡になど近寄りたくもなかった。
だが、学生の立場は弱い。怖いから嫌です、などと言ってみたところで聞き入れてもらえるはずもなく、半ば無理矢理連れていかれた件の古墳。
立入禁止のロープの先に踏み込んだ瞬間、嫌な寒気が背筋を走り抜けた。
木の葉が擦れるようなざわざわとした話し声、うすぼんやりと輪郭の歪んだ人影。
あまりに古くて、もう自分のかたちを保てなくなったものたちが、大量に蠢いていた。
たくさんの気配をなんとかやり過ごし、真夏の暑さにも堪えながらの作業は由高を酷く消耗させた。
それでも必死で…主に成績を下げられないために…我慢して、汗を拭き拭き働き続け。
調査の結果、その史跡はいわゆる豪族たちの墓ではなく、病を封じ込めるための塚であることがわかった。最悪の結果だ。
残ったのは酷い疲労と眠気、そして肩の重み。
帰ってシャワーを浴びて、一眠りして……目が覚めたら、近所の神社にお祓いを受けに行こうと思っていた。
とにかく疲れていて、少しでも体を休めたかったのだ。
ふらふらしながら駅を出て、バス停で船を漕いでいると、由高の前に何かが転がってきた。
透明の硝子に炎のような赤い模様の入った、ビー玉。
ころころと転がって、由高の爪先にぶつかって止まる。
ーーああ、ビー玉。懐かしいな。
そう思い、それをただ眺めていると、数歩離れた路上から声をかけるものがあった。
「……悪い、それ拾ってくれるか? ちょっと手が塞がってるんだ」
「……へ?」
咄嗟に反応できずに声のした方を見ると、そこには男が一人、しゃがみこんでいる。
烏のような真っ黒い髪、薄手の開襟シャツに細身のデニム。
膝の上には猫が一匹、寛いだ様子で丸まっている。
「それ、そのビー玉。お気に入りなんだ、拾ってくれないか?」
男は低い声でそう繰り返し、由高の足下を指差す。
どうやら、膝に乗った猫が退いてくれず、下ろそうとする度に抵抗されてしまって動けないらしい。
ニャァオ、と甘えた声で鳴くキジトラ猫、愛らしい猫に乱暴な行いはできないのだろう。
由高はそっと足下のビー玉を拾い上げ、男に届けようと重い腰をあげた。
由高が近づくと、男の膝に甘えていた猫が不意にそこから降りて駆け出していく。
あまり人に慣れている猫ではないのかもしれない。
男は走り去っていく猫をただ見送ると、ふっと笑った。
「さっきまで、梃子でも動かないって感じだったのに」
「……嫌われちゃったかな」
「店の裏に住み着いてる野良なんだ、ジジィと俺にしか懐いてない。珍しく出歩いてるから構ってやろうとしたら、膝を占拠されてな」
そう言って立ち上がり、足が痺れたとぼやいてみせる。
「これ以上座ってたら立てなくなるとこだったな……ビー玉も、ありがとうな」
差し出したビー玉を受け取り、確かめるように日に翳す……その時になってようやく見えた男の顔はひどく整っていて、由高は思わずどきりと胸を高鳴らせた。
抜けるように白い肌、ほっそりとした顎と花弁のような唇。
前髪で半ば隠れていた目はアーモンド型、長い睫毛に縁取られて猫の目のようにきらめいている。
男だとわかっているのにどこか中性的な、不思議な美しさだった。
ふ、と、猫のようなその目が由高を捉える。
眩しそうに、微かに細められた目が、由高の頭から爪先までを滑った。
「ああ、言葉以外での礼が必要だな。数が多い……けど、脆い」
「か、数? 何言って……」
「お前の周りに、山ほど纏わり憑いてる奴らのことだ。解ってるんだろ?」
枯れ枝めいた指先が、つまんだビー玉を由高の眼前へと運ぶ。ひらり、目の前で内包された赤が揺れる。
炎のようなそれに目を奪われ、ぽかんと口を開けた途端、彼はそれを地面へと叩き付けた。
振り下ろされる指の白さ、流れ落ちる炎の朱色が目蓋に残る。そして、ぱきんと鋭い音が鼓膜を貫いた。
「うわ、……っ!?」
由高は思わず耳を塞ぎ、きつく目を閉じる。
ガラス玉の割れる瞬間、肩に乗っていたものたちが一斉に悲鳴を上げるのを感じた。酷い耳鳴りのような、頭の芯が痛むような感覚。そして炎に包まれる、幻覚。
体を縮こまらせ、衝撃をやり過ごす。目を開けると、それまで感じていた重い疲労感がかき消されていた。
まとわりついていた気配がなくなり、ざわつくような声も拭ったように消えて、聞こえなくなる。
「……ぁ……っ」
由高は必死に目蓋を持ち上げ、目の前に立つ青年を見た。
青白い、細いおとがいを汗が伝っている。
顔の半分を隠す黒髪がふわりと揺れ、黒曜の瞳のなかを数多の影が過ぎ去った。
満足げに笑う彼の瞳に、由高は自分に取り憑いていた霊たちの末路を見出だす。彼らは吹き散らされ、押し上げられて、行くべき場所へと流れていったのだ。
浄霊……いや、除霊だ。唐突で荒々しくはあるが、この青年は恐ろしく強力な祓いのわざを持っている。
「よし……楽になっただろ?」
青年が気安い調子で訊いてくるので、由高は急いで頷いた。雑霊の群れが追い払われ、驚くほど体が軽くなっている。
「あの……あんた、その筋の人……なんですか?」
ずり落ちかけている眼鏡を直すことも忘れて訊けば、青年は嫌そうに顔をしかめた。
「その筋って……極道者みたいな表現すんなよ。一般人で、民間祈祷をかじってる。それだけだ」
「それだけ、って」
「実家がそういう家だから、その家の一人息子だから、見ることも祓うことも自然に覚えた……それだけだ。他に理由なんてない」
黒い目の奥に、ほんの少しだけ憂いが過る。それはほんの一瞬のことで、まばたきをする間に消えてしまったが……その影、憂いの気配は、由高の胸にちくりと刺さるようだった。
どこか深いところに、どうしようもない悩みを抱えているようだと。彼はその枯木のように痩せた体の奥に、吐き出すことの叶わない何かを抱え込んでいるように見えたのだ。
たじろぐ由高をよそに、彼はついと顔を逸らす。その視線は車道をなぞり、由高を素通りして背後のバス停へと向けられた。
「……バス、もう着くな。遅延した原因は俺と……あと、お前か」
面倒なものを背負ってるなと、青年はかすかに笑う。苦笑めいた声の響き、何かを諦めたような悲しげな笑顔が印象的だった。
思わず言葉を失う由高、青年はゆっくりと長い睫毛を羽ばたかせながら微笑む。
「もしも障りにあったら……幽霊絡みでなにか困ることがあったら、琴平の家に連絡しろ。ビー玉を拾ったって言えば、必ず俺に取り次いでくれる」
「ことひら? 琴平って、確か……」
教授に聞いたことがある。口にしかけて、由高は口をつぐんだ。
言葉を飲み込む由高を一瞥し、青年は軽くステップを踏むような動きで身を離す。このまま立ち去るつもりらしい、まるで気紛れな野良猫のように。
「俺は琴平結。たぶんまた会うことになるだろうから、お前の名前は訊かないでおく」
「え、あ……」
「……じゃあ、また」
ふわり、踵を返す瞬間に揺れる黒い髪。前下がりのボブカットを無造作に翻しながら、彼はすたすたとどこかへ歩いていった。
「琴平、結……」
由高はぼんやりとその名を唇に乗せる。
箱守という教授に聞いた話では、『琴平』は代々続く祓い師の家系。そして、結というのは現当主の一人息子……つまり、次代の当主であるはずだった。
すぐに学生をこきつかうのがたまに傷だが、この街……鵠台の郷土史についてならば、箱守教授に敵うものはない。
由高は出会ってしまったのだ。そんな教授が講義の合間に洩らした、都市伝説のような肩書きの人間に。
赤い色を宿したビー玉は由高の足元で割れ砕け、真夏の日差しにきらめいている。
疲労や上がり出した気温が見せた幻ではない、彼が現実にここに居た、証だ。
由高は破片の一つを拾い上げ、そっと財布の中にしまいこんだ。そうしなければいけないと、胸の奥底で騒ぐものがあったからだ。
彼に、結に、もう一度会ってみたかった。幽霊や霊障は怖かったし、そんなものとは関わりたくない。それなのに、ゆっくり話をしてみたかった。
興味と知識欲、恐怖がない交ぜになったまま、由高は遅れて到着したバスに乗り込む。
障りを取り除かれ、軽くなった肩を丸めて。
ポケットの中に、小さな秘密を抱えて。
的井由高は、気付いていなかった。その出会いが彼の今後を……人生を変えてしまう、大きな出会いだということに。
そして、これから何度も災難に見舞われる羽目になることに。
真夏の朝、帰り道での出来事が、すべての始まりだった。