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「恥知らずの子でも愛せるか?笑わせるな」
騎士はそう言って、鼻で笑った。
笑わせるなと言いながら、笑っていた。
彼は私が恥知らずの子とは知らず、私もまたそれを教えなかったから。
まさか目の前に居るのが「恥知らずの子」だとは思いもよらなかったのだろう。
*
*
私と王女様が似ているということに気付いたのは、他ならぬ王女様だった。
出会いからちょうど2年が過ぎた頃のことだ。そのときはまだ、私も声を失っていなかった。
私のことを中位貴族の令嬢だと思っている王女様は、赤の他人なのにおかしなことねと苦笑した。
誰に指摘されることもなく、皮肉にも本人だけは気付いていたのだ。
周囲の人間が誰一人として私と王女様の顔に相似性を見出せなかったのは、神の子は唯一無二であると強く思い込んでいたからだろう。
共通点のないはずの私たちが似ているなどとは想像もできなかったに違いない。
初めから別ものだと認識しているから、似通っている部分を見出すことができないのだ。
よく見れば、目の形も鼻の高さも唇の曲線も何もかも似ていたのに、配置の違いが他人に与える印象を大きく変えた。
王女様は神の子の名に相応しく、ガラス細工のような透明感のある美しさを誇っている。
一目見れば、焼き付くように強く印象が残り忘れることなどできない。
ふとした瞬間に思い返さずにはいられないほどの圧倒的な美。
それが彼女の持つものであった。
それは誰もが認めることであり、また事実でもある。
一方、私は、貴族にしては目立つところがないと影口を叩かれることさえあるほどに地味で素朴だった。
すれ違っただけでは、まず印象には残らない。
そんな、これといった特徴のない顔立ちをしている。
言葉を交わしたとしても、きっと記憶に残ることはないだろう。
だからこそ、誰もが私たちのことを全くの赤の他人だと思いこんでいた。
だけど、私たちをそれぞれ単体で見れば、間違いなく父王に似ていた。
母親が違うのに不思議なことだとは思うが、父親の強い血統を薄めることはできなかったようだ。
父王がそれに気付いていたかどうかは分からない。
いや、きっと知らないはずだ。
あの方は死んだはずの娘に恩情を向ける人間ではない。
王女様の友人として何度も王宮に顔を出していたので、父王と顔を合わせることもあったけれど、私のことを覚えていたかどうかは怪しいものであった。
『姫の盾となるように』そう言われたときは、しっかりと目を合わせたはずであったけれど。
時間にしてはほんの一瞬の邂逅であったから、顔を覚えていなくても無理はない。
私だってそれほど記憶力がいいわけではないから、自分の父親が国王陛下であると知らなければその顔を認識することもできなかった。
王冠と貴族でさえ身につけることのできない豪奢な服装が、父王を識別するのに一役買っていた。
もしも父親が普通の人間であれば、道端ですれ違ったとしても気づかなかっだろう。
国王陛下というある種の特異性が、その印象を強く記憶に刻み込んだのだ。
つまり父王にしてみれば、私など取るに足らない存在だったに違いない。
幾人も居る子供のうちの一人で、既に死んだものとされている恥知らずの子。
神の子の盾として生かすことに決めたのは父王であるが、その後の采配は全て宰相任せだったはずだ。
父王にとって、私の存在などその程度のものだった。
私はそれを、よく知っている。
「王女と一緒に、よく励むように」
それは何度目かの対面のときに、父王から直接掛けられた有り難いお言葉だ。
学院へ通うことが許されなかった王女様のために作られた、王宮内の勉強部屋。
そこで国王陛下から与えられた短い言葉だった。
それは私が中位貴族の令嬢に扮するようになってから唯一、父王に直接与えられたものでもある。
一人きりで勉強するのは辛かろうと、王女様のために用意された学友が私で。
恐れ多くも王女様の横に机を並べ、教師から教えを乞うていた。
そのため、私と父王は、たった二つだけ並んだ机を挟んで向かい合う格好となった。
父王が何の先触れもなく顔を出したものだから椅子を準備する時間もなかったのだ。
座ったまま間抜けな顔を晒す私と、それを見下ろす国王陛下。
机を挟んだだけのその距離は、玉座に腰掛けているときよりもずっとずっと近かった。
それは、手を伸ばせば届きそうなほどに。
しかし、顔を上げた先に見たかの方の瞳には何の感情も篭っておらず、深い紫が光を取り込むだけだった。
今しがた優しい言葉を口にしたとは思えないほど、機械的で事務的な態度。
無機質な眼差しは人間のものとは思えず、濁った眼差しが精巧なガラス人形を思わせる。
こちらを見ているのに何も見ていないというのは、まさしくああいう目のことを言うのだろう。
温かいとも冷たいとも言えない目は、その一瞬前に、王女様に向けていたものとは全く違った。
王女様の前だからこそ、仕方なく私にも声を掛けたのが分かる顔つきだった。
それまでは何一つ言葉をもらえなかったことを考えると、事前に、王女様が進言していたに違いない。
『私の友人に、何か言葉を掛けていただきたいのです』と。
そんな王女様の考えが見抜けるほどに、私たちは同じ時間を共に過ごしていた。
優しい方なのだ。ただの学友を気遣うほどには。
父王と王女様が親しげに会話をする横で萎縮していた私に気付いていたのだろう。
けれど私は、そんな王女様に感謝の意を示すことさえできなかった。
父王の言葉に恭しく頭を垂れながら唇を噛んで感情を殺すしかなかったのだ。
父王のそっけない態度は、当然予想できたものだったけれど、傷つかなかったというのは嘘になる。
王女様の盾となるべく、普通に育てられたとは言えないが、そのせいで心が死んだわけでもない。
それなりに情緒が育ち、喜怒哀楽を覚え、些末なことに喜びを感じ、他人から与えられる悪意には打ちのめされた。
私を育てた老人が、元近衛騎士という只の人間であったことも影響しているのだろう。
それはそれは強い騎士だったと噂を耳にしたけれど、彼は鬼でも悪魔でもなかった。
怒り嘆き、それと同時に笑い喜ぶ、普通の人間であったのだ。
彼とは、親子と言えるほどの関係を築けたわけではないが、お互いに気を許せるほどの関係ではあった。
だからこそ、私は彼から「心」を学んだ。
―――――学んでしまったのだ。
始めから心など持っていなければ。もしくは、いつかの時点で完全に心を潰されていれば。
私はそれこそ無心に、王女様に尽くすことができただろう。
父王の望む通りに「盾」という物体になりきって、そこに居ればいいだけだったのだから。
だけど、老人と暮らした僅か五年間ばかりの期間で、私は貪欲にも学習してしまった。
空の色や森の緑を美しいと知り、剣を持つことに怯えと誇りを抱き、誰かの傍に居ることは心地いいことだと学んでしまったのだ。
だから、私のことを認識しているかも分からない父王の前で、ずくずくと膿むような痛みを覚える心臓を抑える必要があった。
手の平に伝わる振動が、こんなにも生きているということを証明しているのに。
父王の前に居る私には、きっと命など宿ってはいないのだろう。
父王の眼差しに肩を震わせながら、精進しますと肯く。
国王陛下直々に言葉を掛けられているという事態に動揺している素振りを見せた。
あえて緊張感を隠さず、怯えているようにも振舞ったのだ。
それが、あどけない少女の取る正しい行動だと思ったから。
本当は、もっともっと複雑な感情を身の内に宿していたというのに。
誰にもそれを見抜かれるわけにはいかなかった。
私のそんな様子を見て、王女様は苦笑する。
「お父様はそんなに怖い方ではないのよ」と、怯えなくても大丈夫と。
細い指先で私の背を撫でててくれた。
その優しい仕草に思わず顔を上げれば、こちらを覗きこんでいた王女様と至近距離で視線がぶつかる。
濃淡は違えど、同じ色をした瞳。
私たちはこれほどにはっきりと姉妹だと分かるのに。
私以外の誰も、そう思わない。
王女様と父王の目よりも、ずっと、私と父王の目の方が似ている。
それなのに、やはり誰一人としてそのことに気付かなかった。
死んだはずの第四王女が、まさか神の子と机を並べて勉学に励んでいるとは思いもしないのだろう。
私が生きていることを知っているのは王室関係者でもいわゆる重鎮と呼ばれる人間だけだったから、ほかの人間には想像すらできなかったのだ。中位貴族の平々凡々な子女が、まさか王族であろうとは。
あくまでも私は、王女様の学友とみなされていた。
信頼のおける、王女様の唯一の友人だと。誰もがそう見ていたのだ。
5歳のときに引き合わされてから王女様との間に築き上げた信頼が、ただの中位貴族である私の立場を押し上げていた。
そもそもその役目は私でなくとも良かったはずで、貴族の令嬢なら誰もがその役を仰せつかる可能性があった。高位貴族であれば誰でも良かったのだ。
けれど、もしも万が一に神の子を傷つけることがあってはならないと私が選ばれた。
選んだのは、全ての事情を知る宰相以下、数名の重鎮だ。満場一致で私に決まったと聞く。
魔術による契約で、王女様を肉体的にも精神的にも傷つけることはできないから。
腕を上げる前に、腕が折れる。
足を上げる前に、足が折れる。
自ら彼女に触れることは許されず、もしも手を伸ばそうなら指が折れる。
悪態をつく前に舌は乾き、喉が絞まる。暴言を吐く前に歯が折れ、肺が萎む。
私が物心つくよりも前に結んだ契約は、そういうものだった。
そして、決して身元が明らかになることがないように、幾人もの手を介して王女様の前に立たされたのである。
『何一つ許されてはならない。
呼吸をすること以外には何一つ、許されない』
私を王女様の前に立たせた高位貴族の男は、何一つ事情を知らされていなかったはずだ。
だけど、まるで全てを知っているかのような顔をして私にひっそりと呟いた。
高位貴族特有の傲慢さが、あの言葉を言わせたのか。
それとも、勘の良さそうな男だったから、私が中位貴族の令嬢なんかではないことに気付いていたのか。
ただ単に、神の子に従順であるように仕向けたかったのかもしれない。
だけど、その一言は心臓に杭を打つような力を持っていた。
私のことを「恥知らずの子」だと知らない人間が、呼吸以外してはならぬと口にしたのだから。
ただの人間であったとしてもつまり、私には生きる価値などないのだと。
そう言われているような気がしたのだ。
何も望んではならないのだと、既に嫌というほど教え込まれていた事実を重ねていくようだった。
神の子を生かすためだけの私。
ほかに生きる理由など何ひとつないのだと。
―――――それでも。
こんな私でも、ただの一度だけ「恋」というものをしたことがあった。
いや、違う。きっと、過去形ではない。
その恋を終えたつもりはないのだから。
その人は王女様の婚約者だった。
初めての出会いは今よりもずっとずっと昔のことだ。
年齢がやっと二桁に届こうかという年の頃、王女様と婚約者様の交流の為に設けられた茶会の席で、王女様の友人として引き合わされた。
王女様の隣に、ゆったりと腰掛けていたその少年は隣国の第二皇子だった。
金色の髪に濃い藍色の瞳をした少年は、神の子である王女様を凌駕するほどの美貌で、呼吸をしているのが疑わしくなるほどに整った顔立ちをしていた。
等身大の人形が座っていると言われたほうが信じられそうだった。
それほどに全てが作り物めいて見えたのだ。
「私の婚約者なの」
そう言って頬を染める王女様は、誰の目にも明らかなほど、その皇子様に好意を寄せていた。
神の子であるがために国を出ることができない王女様。
そのため、皇子様はこの国の王室に入ることが決まっていた。
幼少期から既に身内扱いで、何度もこの国を訪れており、王族の方々とも親しくしているという話だった。
つまり、王族であるにも関わらず、王女様に婚約者がいることを知らなかったのは私だけだったのだ。
皇子様は今回も恐らく、王女様に会う為だけにこの国へ来たのだろう。
そんな彼は、王女様の学友であるただの貴族子女にも優しかった。
抑圧されてきた人生のせいで意思を伝えることに躊躇いを覚える私に、ゆっくりとで良いから話してごらん、といつまでも時間を割いてくれる人だった。
優しく優しく手を取って。ふわりと羽が落ちるみたいに頭を撫でてくれる人だった。
王女様と同じく、私のことを年下だと思ったのだろう。
「彼女にとって君が妹であるなら、僕にとってもそうだよ」と、微笑みをくれた。
何も知らないのに、王女様と同じく私を「妹」と言ったのだ。
ただただひたすらに焦がれていた。
はっきりとした理由など何もなかったのだ。好きだと感じれば、そう思ってしまえばもう駄目だった。
異性と接触すること自体が、初めてに等しかったからこそ。心を奪われたのだろう。
だけど、彼とどうにかなりたいとか分不相応なことを思ったことは一度もない。
傍に居て、見つめることができたらそれだけで良かった。
こちらを見てくれなくて構わない。目など合わなくとも、言葉を交わさなくとも、不満はなかった。
彼がこの世に存在している事実だけで、幸福だと思っていたから。
だから、彼が、何よりも誰よりも大切にしていた王女様を何が何でも守りたかったのだ。
彼の優しい相貌は、どこまでもひたむきに王女様を追いかけて決して逸れることなどない。
それだけで、皇子様が王女様をどれほど大切に思っているかが分かる。
微笑み合う二人は、生まれながらに対であったかのように互いを引き寄せ合っていた。
政略結婚とは思えないほど相思相愛の二人。
国と国とを結びつけるためだけの結婚だというのに、奇跡的に心を通わせることができた二人だった。
それはきっと、王女様が神の子だったからだろう。
この世界で、彼女の意に添わないことは起こらない。
神がそれを許さないからだ。
全ては彼女の思うとおりに進んでいく。望んだままの人生を歩めるように神がこの世を操作している。
王女様が発する甘い香りの漂うお茶会で、そんなことを考えていた。
だからこそ私は、自分の人生を彼女のために捧げることを決めることができたのかもしれない。
何を望んでも、何を願っても、何一つ思い通りにならない人生なら。
せめて、好きな人には幸せになってもらいたい。
王女様が皇子様を望み、そして皇子様も王女様を望むのなら。
私は二人を守るだけだ。
そのとき初めて、他の誰にも強制されることなく自らの意思で選択した。
それがどれほどのことか、誰にも分からないはずだ。
たったそれだけのことに喜びを感じる私の心情など、誰にも理解できないだろう。
普通の人間であったなら、複数の道筋からたった一つを選び出す権利を与えられている。それが人間の尊厳というものだ。
だけど、私には初めからそれがなかった。
だからこそ、たった一つを選ぶことができたそのとき、私の心は喜びに沸き立ったのだと思う。
こんな風に、日々が続いていけばいいと願っていた。
誰一人として傷つかない、そんな世界があればいいと本気でそう思っていたのだ。
「―――――姫!!!!」
お茶会の穏やかな空気を裂く悲鳴。皇子様の声だと認識したそのときに肌が粟立ったのは条件反射だった。
王女様の前に躍り出た皇子様の、更に前に飛び出す。胸元に隠していた短剣を取り出す暇もなかった。
昼中の太陽を反射する白刃と、右肩を貫く灼熱。
皇子様を庇うことができたと安堵したのは一瞬のことだった。
王宮の中庭に置かれていたテーブルが盛大な音をたててひっくり返る。
少し離れたところに薔薇園があるだけの、障害物などなにもない開けた場所であるにも関わらず一体どこに隠れていたのか、次々に姿を現す暗殺者。
すぐ近くで私たちの茶会を見守っていた護衛騎士がこちらに駆け寄るのを視界の隅に収めた。
彼らが隙の無い動きで敵を切り伏せていくのを確認し、膝をついて少しだけ呼吸を整える。
そして、地面に転がっていた敵方の剣を、血に濡れた右手で拾い上げた。
「……リリス!!」
皇子様の私を呼ぶ声が遠くに聞こえる。
けれど振り返ることもできない。
護衛騎士と一緒に、襲い来る敵に相対するだけだ。
私の小さな体では、剣を持ったところで振り抜くことなどできないから、体ごと突進するしかない。
それには大きな危険が伴うけれど、今はそんなことを言っている場合ではなかった。
腕を一本失うくらい何でもない。
足を失ったとしても腹を切られたとしても、たとえ心臓が止まったとしても、それが私の役目ならば。
使命を果たさなければ。
そのために生かされてきたのだと、頭の中で言い聞かせる。
そして、この非常事態について考えを巡らせていた。
そのときにはもう、それほどに冷静だったのだ。
狙われたのはきっと皇子様だろう。
神の子である王女様を害そうとする人間は、この国にいない。
だとすれば、偶々我が国を訪れていた皇子様を狙ったと考えるのが妥当だ。
周囲に気兼ねなく親交を深めることができるようにと護衛を最少人数に抑えている今が、一番狙いやすいと踏んだに違いなかった。
つまりそれは、内部事情が筒抜けだったということだ。
「リリス、リリス!止めるんだ!止めろ!」
―――――君が、そんなことをする必要はない!!!
敵か味方が分からないが断末魔の響く中庭で、研ぎ澄まされた五感がしっかりと皇子様の声を聞き分ける。
目の前に散る鮮血が自分の顔を汚すのも気にせず、ただひたすらに剣を振るった。
そうしなければ、負けるとわかっていたからだ。
いつか、こうなったときの為にと師匠から剣術を習っていたが、どれほど腕を磨いたところで大人に適う筈も無い。
だからこそ、相手を出し抜く方法を考え抜いたのだ。
身軽で居るためにあえて肉体を鍛えなかった。同世代の子供よりも、更に小さい体だからこそ相手の懐に入り込むことも容易い。向かってくる剣を避けることさえできれば、間合いを詰めることはさほど難しくなかった。
そうして距離を詰めたところで、急所を一突きする。
これが戦争であったなら、ひとたまりもなかったであろう。
遠くから矢で射られればそこで終わりなのだから。
だけど、そうではなかったから、私は敵をねじ伏せることができた。
目の前を散る鮮血が重なり合って、青空を、太陽を、芝生を、白いカップを、黒く塗りつぶしていく。
数分前まで、私がたしかに享受していたはずの光は、もうどこにも存在していなかった。
気付けば、赤く染まった地面の上に仰向けで倒れこんでいて。
いつまでも胸を苦しめる荒い呼吸だけが響いていた。
「よくやった」と、嫌な笑みを浮かべたのは王女様の護衛騎士だ。
王女様と皇子様は既に安全なところに避難されたのだろう。周囲には誰もいなかった。
残された複数の血痕だけが、先ほど惨事を証明している。
横を向けば、よく手入れされた庭園の白い花にまで血が飛び散っていた。
名前も知らないその花が何だか哀れで、強く目を閉じる。
そうすると、闇の中で鋭さを増した嗅覚が王女様の残り香を嗅ぎ分けた。
優しく、甘く、残酷な香りだ。
暗殺者の剣は、一度も、王女様を狙わなかった。
それなのに、皇子様は王女様の前に立ったのだ。
だから、だから。
「お前がなぜ、王女様の学友に選ばれたのかやっと分かったよ」と、静かな声が降ってきた。
それはつまり、今の今まで私のことを認めていなかったということだろう。
真っ暗な闇に囚われた視界で、「そうですか」と呟いた自分の声が静けさを取り戻した中庭に響く。
大きく脈打つ右肩が再び痛みを訴え始めていた。
「少し、休んでから戻ってもいいですか」
そう答えた自分の声が、僅かな震えを帯びていて。息が上がった。
お前が手を汚す必要などないと言った皇子様。
私を案じるかのように搾り出されたその声は、喧騒の中に消えた。
あんなに優しくしてくれたのに。
私の言葉を、いつまでも待ってくれる人なのに。
―――――それなのに、言葉を返すことができない。
もう、戻れない。王女様と皇子様の「妹」には。もう。
「……気の済むまで休むといい」
労わるような声で言った後、寝転んだ私の横に腰を下ろした護衛騎士。
その気配に少しだけ瞼を上げれば、その胸に輝くいくつもの勲章が陽の光を反射した。