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プロローグというには長すぎた出会い

 血は水より濃し、という言葉があるがそんな警句がこの世界で大きい顔が出来ていたのはずっと昔、どのくらい昔かというと――うんと昔なのである。

 血縁なんてものはもはやこのご時世において大切にしている者がいなければ、それを求めたり、すがったりする者もやはりいないのである。

 では、彼等彼女等はいったい何を求め、何にすがり、そして大切にしているのか。

 ――それは、宝である。

 宝。

これは愛や友情、それこそ先ほど述べた血縁などといった抽象的な、概念的なものではない。人として求めざるを得ない、生きている証として貪らなければならない、心の奥底に根を張り続け、最悪の場合は自身をも枯らしてしまうほど必要とするものなのである。

 そして、それを持つものはこの世にあまねく人類の上に立つことを許され、神としてあがめられることすら許されるのである。

 求めるには世界を占めるにわずかな陸へ別れを告げ、大いなる父である海へと帆を張らなくてはならない。


 いざ行かん、道があらんことは自由のあかしぞ。





 見渡す世界は青のみ。

 白ではない青のキャンバスのど真ん中に、嵐でも来ようものなら消し飛ぶことすら確認できないだろうボートが一艘ゆらりと揺れていた。

 そのボートの名前は(ボートごときに名前を付けるのもおかしな話だが)「ナルマン」という。

 そして、いつ身を亡ぼすような危険が這い寄ってくるかもわからない海の上でナルマンの背中で無警戒にも男が寝ていた。

 このきつい日差しからは逃げることのできない環境にいながらも肌が健康的な青年の名前はアソラである。

 ナルマンには麻袋が二つ、中には食料が入っているが口はきつく結ばれたままである。他には水の入ったペットボトルが5本。うち、1本はもう底をつきかけている。他には航海の必需品ともいえる海図、ところどころ擦り切れてはてはど真ん中がぽっくりと穴があいている。そして、これはどうしてかとびきり細工の施された携帯用の羅針盤。以外なし。

 この積み荷を見れば誰しもが近くの島へと渡っている旅人にしか見えないだろう。

 しかし、その積み荷でたどり着くことのできる島はここ等にはなく、もっと言えばこの近くに陸はないのである。

 しかしながら、彼はこの積み荷の状況の中、今日で1週間を迎えようとし、一週間の間ペットボトルに入った水のみで生活をしているわけである。

 これは驚くべきことである。この男は一週間もの間、栄養という栄養を摂取していない。彼は何かの修行を経て何か超人的な技を会得したわけではなく、ましてや彼の過ごしてきた中で一週間もの間何も口に入れてはならないなどという文化の中で過ごしてきた人種でもない。

 では、何がこうしたのか。

 それは、先に説明したように彼は寝ているのである。

 アソラは港を出てから寝て過ごし、三日の昼に一度だけ起きドーナツ型の海図と携帯用羅針盤を眺め海図に何やら印をつけ、また寝た。

 水を飲んだのはこのとき限りだ。

 活動の一切を省き体力の消費を極限に減らした唯一の活動がこれなのである。

 そしてまた四日たつ今日、アソラはそろそろ起きるのだが――――

 ナルマンの頭の向こうで水しぶきが上がっている。

 魚か?いや違う。女だ。

 女がバシャバシャと水しぶきを上げ今にも溺れそうなのである。溺れないよう必死に抵抗している最中にこのボートを発見したのだろう。声を上げ、ナルマンに向かって助けを求めたが、残念ながらそのボートの主はただ今夢の中でこれまたゆらりゆらりと彷徨っているのである。

 その夢の中にいる主はというと、瞼を開けてはその重みに耐えきれずまた閉じる。この運動を繰り返し行っているのである。



 ――――こんなはずではなかった。

 まだ私には果たさなければならない役目がある。

 欲を言えば人生という長い時間の中ではまだやりたいこともたくさんあった。しかし、それもこんな状況ではもう夢物語といってしまうほかない。

 国の王様からの直々の命令で世界の海を渡ることになり、結果溺れている。

 何も命令を恨んでいるわけではない。むしろ、勅命には誇りを持っていた。

 出世がかかっているとかそういった向上心からできた気持ちではなかった。

 私は国の中でも割と力のある身分だったし、それなりに快適な生活を送っていた。

 だが、私のこの身分は、この生活は私自身が、私のみの力で勝ち得たものであった。明日をもしれぬこの世の中で、人が動くのを待ってから動いているようではその先に待っているのは負けであり、死である。

 だから、私は誰に命令されるまでもなく私にできることをし、私に利のあることをしてきた。それが人に評価され、国に評価され、上に評価されたのだ。

 そうして私は自然と今の居場所を守ってきたのだ。

 しかしそれは本当に私の居場所なのか。

 私が評価され上へと昇りつめることで、同時に元より上に立っていた人の居場所を奪ってきたのだ。

 私がこのような場所におさまる間にはもちろん人に言えないようなこともやってきた。王様が聞けば罰は免れないようなこともやってきた。だから、それを糾弾する声を握りつぶせるほどのものに恩を売ったりもした。

 そうしてここまで来たのだ。

 しかし、それはいつの間にか小さな雪玉が坂を下ることに大きくなるように、私の小さな不安をやがて大きな不安へと成長させていた。

 信頼である。

 これが私には圧倒的に他と比べてなかった。

 信頼とは長年の交遊を経て形成されるものであり、そういうものであると私自身分かっていた。

 しかし友を作っている暇があれば、いかに相手を利用するかを考えてしまう。

 そして、上へ行くほど周りの者もその考えを場に充満させる。

 だからこそ恐ろしいのだ。

 信用は金で買うことが出来る。

 されど、信頼は、真の友というものは金では買えないのである。

 出世という山に立ち向かう限り誰が私の足を引くかわからないのである。

 転げ落ちればクレバスへと身を差し出すことになり、一生這い上がることを許されない。

 ゆえに、私は求めていた。

 しかし、私は今足を引っ張られるどころか無様にも足を滑らせてしまったのだ。

 こんなところで終わって言い訳がない。

 私はこんな名もしれない海の真ん中で紙の上の点を消しゴムで消すような死に方はできないのだ。

 だから、神よ、もしあなたが本当にいるのなら向こうに見えるボートをこちらへやってくれ。

 もう頭の中が温かく軽くなってきた。

 息をするのがやっとだ。

 もし、ボートの者が引き上げてくれるならその者を今度こそ信頼するから――――



 ナルマンは揺れていた。

 もちろん、このボートは海へ出ているのだ、波に遊ばれて揺れるのは当たり前のこと。されど、今述べたのは波についてのことではない。波の遊び心以外の揺れの原因はこのボートの主である。

 つい先までナルマンの中で夢の世界を闊歩していたアソラが三界へと帰ってきたのだ。

 そして、長すぎた睡眠のおかげで固まった体をゆっくりと伸ばしている最中なのである。

 一通り体の感覚を確かめると、これはまた大きなあくびをしながらナルマンの端に寄せてある麻袋を引き寄せた。

 久しぶりの食事を前にして彼は周りの状況を完全に無視をしていたのである。

 確かに七日も何も口に入れることなくほんの限られた水のみで過ごしていては誰しも周りのことなど気にしてなどいられない(最も七日の断食など一般の人間にはできたものではないが)。

 しかし、空腹のせいもあるだろうが、まだ完全に起ききっていないアソラにとって固く結ばれた麻袋の紐を解くことは容易なことではない。

 そこで神様は今にも消されそうな紙上の黒点の存在に気づいたのである。

 いまだに袋の紐に苦戦を強いられていたアソラはここで一つ落ち着こうと底に転がっている残りわずかな水が入ったペットボトルを手に取った。

 キャップを外し、飲み口に口を付け冷静になったところで気づいた。

 どこからか水をたたく音が聞こえるのである。

 アソラは顔を上げもう一度周りを見渡した。

 するとどうして今まで気づかなかったのだろうか、海面で水しぶきがあがっているのだ。

 しかもその正体は女なのである。

 アソラは気まぐれな性質ではあっても、人並みの危機感は備えていた。

「おーい、そこの人どうしたんだー」

 あたりに船らしきものはないし、女の泳ぎ方もとても変でアソラの声も聞こえていない。

 これは誰もがわかる溺れ方だった。

 「これはまずいな」

 アソラはナルマンを水しぶきの中心へと漕ぎ進めた。

 幸運なことにナルマンは風上の位置にいたため彼女のもとに着くのにそれほど時間はかからなかった。

 もう目と鼻の先。そして女もこちらを見た。

 「た…たす、けて……」

 その声はひどく弱々しいものであった。

 それもそのはず、彼女はアソラが寝ていたころからこのままなのである。

 起きてからも空腹のために気づかず時間のみ立っていた。

 この間だけでもう15分が経とうとしていた。

 「よし、待ってろ。いま助け……」


 ぐぅ。


 「やっぱり少し待ってろ」

 そう言うとアソラはもう一度麻袋に手を掛けた。

 人間は欲望に忠実である。

 「ちょっと待ったあああああ」

 なんということだろうか。目の前でうつろな目をしていた少女が、海面から飛び上がりナルマンへと転がり込んできたのだ。

 「あなた正気?この麗しい私が今あなたの前で助けを必要としているのよ。気づかないならともかく、あなたは私に差し伸ばした手をたかだか食事のためにひっこめたのよ!薄幸美人な私より食事を優先したのよ!」

 少女は驚くことにほんの数秒前とは打って変わって気力にあふれた少女へと復活していたのだ。

 そして、ナルマンに乗り込んできてから休むことなくアソラの肩をゆすって叫んでいる。

 そのためこんな小さなボートは揺れに揺れた。

 「ちょっと聞いてるの?まさか聞いてないわけないでしょうね。あなた、自分がなにをしようとしたか分かってる?目の前で散りゆく可憐な花を無残にも見過ごそうとしたのよ」

 なお揺すられ続けているアソラは目の前にいる少女に対し驚きを隠せなかった。


 いつまでしゃべるんだろう。


 「財布は落とすわ、国に連絡がつかないわ、仲間に裏切られるわでさんざんな目にあってきたのよ。だから正直このボートを見つけたときは神が私を助けたのだと思ったわ。なのに、あなたはその私にとどめを刺そうというの?」

 まだ死の淵まで行った少女は黙ろうとしない。

 むしろ、だんだんとヒートアップしてきて肩をゆする力も強くなっていった。

 「わ、わかった、悪かった。だから落ち着いてくれ」

 「いやよ。これが落ち着いていられるものですか。だいたい、あなたには道徳心というものがないの?」

 いまやナルマンの揺れが尋常ではないほど大きくなっていた。

 「謝るよ。謝るから静かにしてくれ。いや、静かにしなくてもいいからせめて暴れるんじゃない。じゃないとナルマンさんが……」

 「いやよ。絶対にいや。あなたは私の苦しさが分からないからそんなことが言えるのよ。そうよ、そうだわ。あなたも私と同じ……あれ?」



 「へっくし、何か申し開きがあるならき聞くけどなにかあるか?」

 「へっくち、私は悪くないわ」

 「そうか、俺は悲しいよ」

 アソラはそういって少女の濡れた奥襟をつかんでヒョイと持ち上げた。

 「な、なにをする気?」

 「そりゃ、人様の船で暴れたうえにそのままひっくり返して、積み荷のほとんどを海の底に沈めたあんたに今度は拾いに行ってもらおうと思ってな。」

 「ば、バカな真似はよしなさい。こんなことして許されると思ってるの?わかったら今すぐ私をこのボートに。ごめんなさい。ねぇ、私が悪かったわ。だから、足が海に浸かってるので引き上げてもらってもよろしいでしょうか」

 その言葉を聞いたアソラは改心した少女をボートに返してやる。

 あの後、この二人は仲良く海に落ちた。

 ナルマンはついに揺れに耐えきれなくなりひっくり返ってしまったのだ。

 ボートに積まれてあったものは少しの缶詰、二本のペットボトルそして航海するのに必要な海図と羅針盤を残してすべて魚の餌となってしまったのだ。

 アソラは少し休んで、少女に海から拾い戻してきたわずかな缶詰を手渡した。

 「そういえば俺こうやってあんたを乗せてるけど、まだ名前を聞いてなかったな」

 「ふふ、よくぞ聞いてくれたわ。何を隠そう、イグド王国右大臣にまで上り詰めたターニャ・フィッツジェラルド・フガーとは私のことよ!……このアンチョビはパンと食べたいわね」

ターニャと名乗った少女は他の少女と比べものにならないほどの美貌の持ち主だった。

 その絹の糸と見紛うほどの腰まで延ばされた銀の髪。

 白磁を思わせる透き通ったような肌。

 サファイアのごとく輝く青い目。

 年は十七のアソラよりいくつか幼くみえ、華奢な躰は出るには少し足りないが、淡い青の、ふわりとした服に包まれている。

 ターニャは勢いよく立ち上がって自己紹介をはしたものの空腹には勝てず、イワシの塩漬け缶を食べだした。

 「…………」

 「あれ、もしかして私のこと知らないの?」

 「俺小さな島の出だから国のことは全くといっていいほど知らないんだ」

 「そう、それは残念。これでも王国一の出世頭と呼ばれてるのよ」

 「へぇ、そりゃすごいや。ところで、そのお偉いさんがどうしてこんな海の真ん中で死にそうになってたんだよ。右大臣ほどのあんたが一人で旅行をするわけないだろうし」

 「それは……」

 ターニャは食べていた缶をひざの上に置き、アソラの質問の答えに困っていた。

 そんなターニャの様子に気が付いたアソラは。

 「悪い、言いたくなかったら無理しなくていい」

 「裏切られたの」

 「え?」


 ターニャの目には涙が浮かんでいた。



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