第伍話 キエタ ユウジン
ふと、夜中に人の動く気配を感じて目を覚ます。
「宇野?」
ルームメイトの名前を呼ぶ。まだ覚醒しきらない頭をわずかに持ち上げ、今の時刻を確認する。まだ2時だ。寝汚いあいつが、朝早く起きるとは思えないし、ましてや一度寝たらあの轟雷のなかでさえ爆睡しているようなやつが、起きるなんて珍しい。
夜気に身震いし、目をこすりながら起き上がる。強めの風が吹く。クリーム色のカーテンが、風で翻り視界をふさぐ。リー、リー、リー、……草の上で虫が鳴いている。
寝る前に窓ガラスは閉めたはずだ。ふと、嫌な予感がして、手探りで部屋の電気をつける。まばゆい発光に目を閉ざす。カタンとサムターン式の鍵が回る音が、響く。きぃーっとドアが開閉する軋んだ音が背後からした。ハンガーにかかってる上着を引き抜いた際、からんとハンガーが地面に落ち硬質な音を立てる。びくっと肩が上がる。片手で、予備のほぼほぼ未使用の靴をもつ。
口を片手でつかんだまま、靴下のまま廊下を音を殺して歩く。いつもはあんなにどたどたとせわしなく歩く宇野は、まるで別人のように、物音を立てずに静かに歩いていく。距離がどんどん離れていくのがもどかしい。はやく僕に気づいてほしいと思うものの、宇野は後ろを振り向かずに進んでいく。
寮監の部屋の前を息を止めるようにして、すばやく動く。非常灯のほかほとんど光のない廊下は、視界が悪い。手すりを頼りながら一歩一歩はやる気持ちを抑えて、階段を降りていく。階段のすべり止めの上に着地すると、じくじくと足が痛んだ。足を踏み外して転んだりすれば自分も宇野もあの鬼公の雷の餌食になるのは間違いない。それは、避けたい。
足音がした。
こっちに近づいてくる。
僕の目の前を歩いている宇野のものではない。足を止めている僕のものでもない。階段の影に身をひそめる。頭を低くして、息を殺す。白色灯のライトが、周囲に向けられる。
一歩一歩妙な溜めをつくる特徴的な足音が、僕の隠れているほうへ近づいて来る。二階に行くにはこの階段を昇るしかない。浅い呼吸を繰り返す。心臓がばくばくとなっている。祈るように、足音が少しでも遠ざかることを祈る。
そんな祈りをへし折るかのように、足音はさらに近づいた。大柄な人影が、視界の端に移る。もうだめかもしれない。いっそ隠れずに堂々としていれば二階のトイレが紙切れで、なんてうそっぱちをいって一階のトイレに行く途中を装えたのに。ぎりぎり、人影の視覚の位置で自分は、銅像だ。無機物だ。ただの置物だと言い聞かせる。携帯電灯が、何かを探るようにして、さっと階段に向けられる。緊張のあまり笑い出しそうになってくる。もういっそう殺してくれなんて気分になる。痙攣し始める肩。その衣擦れの音がやけに大きく聞こえてくる。実際にはほんの数秒だったのかもしれない。だけど、僕には何時間もの長い間そうしていたかのように思える。
足音が遠ざかる。心の中で、1、2、3、4……20秒を数えたあたりで、ドアノブを回す金属音が聞こえた。足音もそこに消えていったようだ。
ほぉっと息を吐く。
強張っていた身体から程よく力が抜けていく。階段からの影から、顔を恐る恐る出す。足音が聞こえるまで、宇野を絶えず視界の端に収めていたが、すっかり見失ってしまった。宇野が先生に見つかった様子はない。見つかっていたらもう少し騒がしいはずだ。
一階のトイレに、電気をつけずに入る。スマホの光源を頼りに、クレセント錠をゆっくりと音を立てないように回す。窓ガラスを開ける音は、結構大きくなってしまう。宇野は、一体どうやって外に出たのだろうか。焦る気持ちを抑えて、開けきった窓から、ねっとりとした風が流れ込む。さわさわ、さわさわ木々が鳴り、落ち着かない気分にさせる。土地柄のせいか、ここの夜は、不気味だ。七不思議が大量に存在しうるゆえんはそこからなのかもしれない。
スニーカーの口紐をしっかりと結ぶ。
窓枠に手を掛け、少し助走をつけるようにして身体を持ち上げる。タイルを足で、蹴るようにして、左ひざを窓枠の上に何とか乗せる。股関節が、無理な動きをしたせいで痛む野を我慢して。反対側の足も窓枠に乗せる。大きく深呼吸する。暗くてよく見えないが、ほどほどの高さがある。フレームを抑えた手が汗ばむ。風が、鳴く。
窓が閉まっているはずの寮内でなるはずのない音。先生に今度こそ見つかるかもしれない。意を決して、飛び降りる。お腹の辺りがむず痒くなる浮遊感。両足が、地面に沈む感覚と、びりびりびりっと予期していた衝撃が来た。
「宇野は、どこだ」
夜の間に少しだけ雨でも降ったのか、地面はぬかるんでいた。そのおかげで着地音と衝撃もだい殺せた。しりもちをつくような無様な着地をしていたら今頃ズボンは悲惨なことになっていたかもしれない。そぉっと、今出てきたトイレの窓から内側をのぞき込む。異変はない。
先生に見つからないうちにここを離れよう。宇野は、どこに向かったのか。宇野との昼間の会話を思い返す。七不思議、怪談、夜……学校、あいつはもしかしたら学校に向かってるのかもしれない。ダメもとで、宇野に連絡を取ろうとしたけど、圏外だった。夕方は仕えていたのに、どうして必要な時に使えないのだろう。まったくもって使えないと毒づき、とりあえず先生に見つからないように駆け足で、宇野を追いかける。
「なんで」
あいつ一人怒られればいいのに。なぜだか、僕までも寮から飛び出してきてしまった。
とくんとくん、脈打つ心音がどこか弾んでいる。
夜の闇の中で笑う三日月。
心のどこかでこの状況を楽しんでいる、非常識な僕がいる。
むせ返る様な草木の香りが鼻孔をくすぐる。
こんな風に自分の意思で自由に動き回れるなんて随分と久しぶりだ。人の顔色を絶えず窺って、自分という存在がどんな人間だったのかすらあいまいに、希薄になって、そのことに気が付いた時には身動きが取れないほどがんじがらめになっていた。寮則を破っているというのに、あぁ、なんて自由なんだろう。
濃厚な夜の気配に高揚した気分に、それに水を差すように、こめかみに痛みが走った。咎めるように発せられた痛み。手の甲を意味もなく患部にあて押さえつける。すぐ止むとばかり思った痛みは、次第に足を強め。止むことのない雨の様に痛みを発し続け、僕はついに蹲る。これは罰なのだろうか。
脳を揺さぶられているような、かき混ぜられているかのような苦痛に、喘ぐ。口から取り込んだ空気に異臭がした。何かを焦がしたかのような甘ったるくそれでいてどこか焦げたような臭い。何処からこの匂いはしているっていうのだろう。
ヤバイ。これはよくないものだ。
分っているのに、口をふさぐのもひどくおっくうだ。
いつの間にか視界に侵入した蛍火のような光がまるで手招きするかのように、くるくると周り始める。明滅し出した火の玉から不思議と目が離せない。
なんだか、胸の奥がふわふわする。不安と好奇心をブレンドしたような嬉し異様な、哀しいような変な気持ちが飽和し出す。
「嗚呼」
体が熱っぽくなり血が騒いだ身体がぴくりと反応し出す。靄に囲まれ狭まった視界、光に誘導され、立ち上がる。カッカとマグマのようなものが全身を駆け巡り熱い。心の中はめちゃくちゃに攪拌され、旨く思考がまとまらない。呼吸をするごとに、口腔内、鼻腔内からあの香る靄が体内に取り込まれていく。
くらくらとしためまいが僕を襲う。視界すら定まらないというのになんだか不思議と気持ちがいい。雲の上を歩いているようで、ひどく現実感のない路面をおぼつかない足取りで歩み出す。我だから、おかしなくらい心地よい。まるで母親の胎内で無垢に眠る赤子のようなそんな安心感。
―――このまま、なにも考えたくない。
もう、悩むのも考えるのも、なにもかもめんどくさい。