3話 彼と彼女は宵闇の中で出会う
「ねえ、おじさん。大丈夫?」
ベンチの後ろ側から、少女らしき声が聞こえる。
「…………」
綺麗な声だと素直に思った。
綺麗で、だけど可愛らしさも感じられる声。贅沢だ。ずっと聞いていたくなる。
でも何故だろう。どこかふてぶてしいような声にも聞こえた。
……気になるな。こんな良い声をしているなら、相当に顔も良いと見た。
見てみたいけど、まさか俺に声を掛けた訳じゃないだろうしな。なんたってまだ若いし。会社を辞めた所で、次がいくらでも見つかる年齢だ。
間違っても他人からおじさんって言われるような年齢じゃない。
「ふぅ、あの――――」
どうやったら座ったまま顔を見れるだろう、と考えている内に少女がまた声を発した。
けれど、その美しい声は強い夜風で吹き飛ばされてしまった。なんて言おうとしたんだろう、って俺の髪がなんかふわふわしてる。今の風で持ち上げられたのか。
直したいけどあとは帰るだけだし……でも気になるな。
顔を俯かせながら、髪を弄っていると誰かが俺の右肩を叩く。
「…………っ!」
突然の感覚につい体が震えてしまった。
だ、誰だ。俺の肩を叩いたのは! まさかあのおっさんペアって事はないだろう。じゃあ残る可能性は。
僅かな期待と違っていて欲しい気持ちが交差していると、
「わっ、そんなに驚かないでよ」
少女の声がまた聞こえた。
それもかなり近くから。というより前に誰かいる。
靴の感じからして……俺はつい顔を上げてしまう。
「!」
目の前にイメージ通りの少女がいた。
「ん……間違えた。お兄さん、かな」
声から顔を作ったんじゃないかと思うぐらい、少女特有の可愛らしさと美しさをあわせもった顔をしている。それでいて何処か不遜な雰囲気を感じさせた。
本来は嫌悪を抱くはずの不遜な雰囲気――ふてぶてしさが俺にとっては魅力的に見える。不思議だ。
「聞こえてる? 結構あぶない感じかな」
「あ、ええとその、全然大丈夫です」
俺は焦りながら少女の言葉に返事をする。
思った以上に可愛い子だな。彼女と別れてから他の女を可愛いと思ったことないのに。
にしてもこの子いくつだ? かなり若い。制服着てるし、中学生か高校生のどっちかだろう。雰囲気からして高校生っぽいけど……って生徒がこんな夜遅い時間に外をほっつき歩いてていいのか。
というかそもそもなんで俺に声をかけたんだろう。まさか知り合いってことはないだろうし。
様々な疑問が頭をよぎっていると、
「うん、大丈夫そうだね。よかった」
少女が小さな笑顔を浮かべていた。ああ、もしかして心配してくれていたのか。
傍から見たら酔っ払ってたり、落ち込んでるように見えるもんな。実際その通りだけど。
「ありがとう。心配してくれて」
俺はベンチに座ったまま、頭を下げる。
すると少女は、
「どういたしまして。気にしないでいいから」
なんてことはないかのように言った。
おっおおおお!
凄い、凄くいい子だ! 中高生の女子が大の男に声を掛けるなんて怖いに決まってる。なのに、気まで遣ってくれて! 今日は最後の最後でいい事があったなぁ。そう思っていると強めの風が吹き、スカートが舞った。確変である。
「――――ん、今日は風が強いね。その格好じゃ寒くない?」
「あはは、まあね。少し寒いかな」
もうちょっとだったのに……!
俺は少女の細く長い指をにらみながら視線を顔へと向ける。
「でも、君こそ寒くない?」
足が長い割にスカートは短い気がする。
膝丈まである長いソックスを履いているとはいえ、絶対に寒い。
上半身も白いシャツの上から、髪の色と同じチョコレートブラウンのセーターを着ているだけだ。おまけに首元の青いネクタイは緩められてて、第二ボタンまで開いてしまってる。
首元の開いた部分――――血管が浮き出てきそうなほどに白くなめらかな首筋を眺めていると、少女は視線に気付いたのかボタンを一つ閉めた。
「寒いかな。ブレザーぐらい着てくればよかったかも」
少女は寒さを感じさせない、意思の強い声でそう言った。
「やっぱり寒いよね」
俺は苦笑いをしながら自分を恥じた。
だって大の大人が、中高生の女子のスカートや首筋を眺めるなんていけないだろう。自分の行動を反省していると、少女がぼそっと呟いた。
「でも、こっちの方が反応いいんだよね」
反応がいい? どういうことだろう。
というかそろそろ解放してあげないと。若い女の子をいつまでも引き留める訳にはいかない。……この子のおかげで今日は悪くない一日になったな。ヤクザとの初体験も忘れられそうだ。
俺は感謝の念を込めながら口を開いた。
「声を掛けてくれてありがとう。ここ最近良くないことだらけでさ。
何だか救われたよ。帰り道には――――」
気を付けて。と言い切る前に、少女は信じられない事を言った。
「お兄さん、私と……しない?」
風で舞う長い髪を抑えながら、少女は蠱惑的な声でそう呟いた――――
「えーっと、その、なんて言ったのかな?」
フリーズしかけた頭を踏ん張らせる、と同時につい周囲を確認してしまった。
よ、よし駅に向かう人が少しいるぐらいで、近くには――声が聞こえる範囲に人はいない。
さて……俺の聞き間違いじゃなければ“私としない”って言ったはずだ。なにを!? なにを一緒にする気なんだ。
いやらしい想像が俺の頭を侵略していると、少女は更に爆弾を落とした。
「私とプロレスしないって言ったの」
「プロレス……?」
疑問を聞き返すと、少女は微かに光る星空を見上げながら口を開いた。
「うん、正確に言うと“夜”のプロレスかな」
意味はわかるよね、と言わんばかりに猫のような目を俺に向けた。
もう無理、そういう意味にしか聞こえない。俺の頭は無事ショッキングピンクに侵されてしまった。だが、
「はっはは、大人をからかうのは良くないな」
俺にも理性はある。
彼女がいた頃は浮気なんて無縁の生活を送れた男だ。
可愛い女の子にお誘いを受けたぐらいで簡単には落ちない。
「冗談だと思う?」
少女はそう言いながら、俺の隣に腰掛けた。
その距離わずか五十センチ。
近い、近すぎる。俺は腰を浮かして少女から少し距離をとる。
「…………」
俺の反応を見て、少女は小さく頷いた。
それはどういう意味……? 諦めてくれた?
息を呑みながら、心の中で祈る。頭の中はもうダメだ。
「ほらっ、もう夜も遅いし親も心配するよ。帰りな」
俺の言葉に一瞬反応したように見えたが、すぐに落ち着いた雰囲気へ戻った。
そしてその雰囲気のまま、紅い唇を俺の耳へそっと近付けた。
「やっぱり、お兄さんと……したいな。ねえ、しよ」
少女の唇から白い吐息が漏れる。
その瞬間−神は死んだ。
心や頭の中にいた神はもう全面降伏している。
あとは悪魔に従うのみだ。
「……いくら?」
俺は少女から顔を逸らしながら、ボソッと呟く。
「…………」
すると少女は言葉じゃなく、右肩を軽く叩いてきた。
これはこっちを見ろってことだろうか。俺はそう判断して顔を少女へと向けた。
「3?」
少女は無言で左手の指を3本立てていた。
なるほど、経験はないが何となく意味は察せる。答えを確かめるため口を開いた。
「3000円?」
「3万円」
俺の呟きに、少女は口角を上げたまま艶やかにそして素早く答えを返した。
さん……三万円っ!? 高いっ……高くないか!?
俺は驚きを顔に貼り付けたまま少女の顔をじっと見る。
「ふふっ」
だが、少女は微笑むばかりで何も言わない。
三万、三万円かぁ……それぐらいが相場なんだろうか。
よく分からない。分からないが、高い……と思う。
いや、待てよ。
三万もするってことは、手や口だけじゃなく、本番もあるんじゃ……!
俺はまたしても眉を上げ、目を大きく開き、驚いた顔で少女を見た。
「ん」
少女は何も言わない。すかしたような態度だが、そこがまた魅力的に感じる。
本番、あるんだろうか。少女をじっと見る。
高校生にしてはどこか垢抜けているし、笑顔もなんかエロいし……っあるかもな。
俺は目を閉じて、今一度考えた。
おそらく高校生であろう少女に手を出す意味を。出す分には問題ない。
ただ、バレた時が問題だ。親にバレて、警察にバレたらどうなる。間違いなく会社はクビになる。それは、まぁいい。会社を辞めようか迷っているぐらいなんだし。
でも、前科持ちになるのはマズイ。今後の人生に対しての影響が大きすぎる。
再就職だって中々上手くいかないだろうし、なにより親が悲しむ。
だけど、もういいかな。
そういうしがらみから一度自由になりたい。
友達や親との関係を完全に立ち切って、それで彼女の事も全て忘れて……。
そうすればきっとこの無気力感から開放される。新しい人生を歩めるはずだ。
「俺は」
自暴自棄になっている。
そう自覚しながらも、目を開き、少女へ返事をしようと思った瞬間――――
――――彼女の顔が浮かんでしまった。もう他人であるはずの彼女の顔が。
「ごめん、やっぱり止めておく。きみ可愛いんだし、真っ当な恋愛した方がいいぜ!」
それじゃ! と言って、俺はベンチを立ち上がる。
少女はそっか、と口にしただけで特に反応はなかった。
それも当然か。
こんなに魅力的な子なら、俺じゃなくても相手なんて選り取りみどりだろうしな。
「ふぅ」
駅へ向かう人の流れに乗る。
時刻はもう二十三時を回っていた。少し急がないとな。小走り気味に歩きながら、俺は眉間を軽く抑えた。
「今だに振り切れないか」
彼女の事がまだ好きだった。
メールで別れを告げられ、着信拒否にされてもなお、好きだった。
もう会う事もないだろうに。どうしてこんなに好きなんだろう。我ながら一途な男だな。
とは言っても、彼女への想いはどんどんと霞んでいってる。
恐ろしくも優しい時間の流れがそうさせているのだろうか。
ただ、もう少し早くこの気持ちを断ち切れていたのなら、島流しプー太郎ってあだ名は付かなかっただろうな。
「ははっ」
駅構内には暖かい風が充満していた。
まっなんだ。今日は悪くない一日だったよな。
おっさん達にヤーさん、それにえんこー少女よ。
ありがとさん。
「ガラじゃないかな」
俺は心の中で今日優しくしてくれた人達に感謝をして、改札を通った。
明日からの生活が実りのある物だと信じて。
「冷静になったはず、なんだけどなぁ」
俺は駅の改札を通り抜ける。時間は十九時を回ったばかりだ。
次の日も休みとあってか、まだ帰宅している人の数は少ないように見える。
とはいっても先週来た時のように構内は人だらけだ。むしろ先週よりも多いかもしれない。ハロウィンの影響もあるのかな、とカボチャの飾りを見て思った。なんにしろ人が多いと落ち着く。
「早すぎたかな」
リラックスしたところでもう一度時間を確認する。
前回少女と会った時間は二十二時を回っていたはずだ。明らかに今日は早い。
でもだ。ああいうのは先着順だろうし、早いに越したことはないよな。
「よしっ、いくぞ」
俺は腹に力を込めて、人通りの少ない西口へ歩き出した。
先週出会った少女と会う為に――――
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